56話 とける
――眼鏡のレンズ越しに、キシャの双眸が天賦を射抜いている。やけに空気が冷たかった。
「こそこそ何かやってるんだろ。何をたくらんでる」
口から言葉が出てこない。「なにも」の3文字さえ言えなかった。ただ、彼の目を見ることしか。
「……キシャ。わ、私たちは、ただ炎砲に力を貸して欲しいだけで――」
キシャの目が再生師に移された。
「私、気づいてたんですよ。今日、私が現れると口をつぐむようになりましたよね」
「いや、そんな、こと……。」
「いいえ、確かです。目もおかしい。最初の頃はそんなことなかったのに、今はまるで――」
「――怪物でも見るかのような」
喉が鳴る感覚がした。
再生師の尻尾がぴたりと止まる。
「そんなに怖いですか? この私が? どのあたりに恐怖を感じたのか言ってもらえます?」
天賦と再生師は互いの足元を見ていた。早くカルメとファティが戻ってこないかと、息を詰まらせながら。
「私はただの虚弱な人間ですよ? あなた達が首をぎゅっと掴めばすぐに殺せる。何をそんなに怖がっているのか分かりません」
彼は固まる天賦たちを面白がるわけでもなく、ただ、真面目に、真剣に、疑り深く、2人を観察していた。
「本当に、わからない。殺すつもりならそんな目はしない。盗める物もうちには無い。一体何がしたいんだ? 私達のような、ただの兄弟に」
……ただの兄弟?
天賦の中でその言葉が跳ねた。手帳の内容を思い出す。
「おれにおとうとはいない」。
「弟とは何だ」。
「妹」、「妹」、「妹」。
それなのに、キシャが言う兄弟とは炎砲と自分自身のことだ。天賦は「妹」を見たわけではない。炎砲がキシャを大事に思っているのもこの目で見た。
しかし、それでも、彼が自分で「兄弟」と言ったことが納得できなかったのだ。
だから、そのせいで、天賦は口にしてしまった。
「妹」
キシャの顔が、ゆっくりと天賦に向く。
「妹はどこ」
「……は?」
キシャの表情が僅かに揺れた。
再生師は口を押さえ、目を見開いて天賦を見ている。
「誰だ、それ」
キシャはあろうことか、首を傾げて、「意味が分からない」と言いたげに眉をひそめた。
その姿が天賦には不快に映った。
「いたんでしょ。あなたじゃなくて」
「おかしくなったんですか? 私達は2人兄弟です。妹なんて私にはいません」
「て、天賦……!」
冷たい声に喉が震えそうになる。
天賦の拙い言葉では彼をこれ以上追求することはできない。だが、天賦はそれをやめなかった。
「いた。どこにやったの」
「だから、いないって」
「あなたは誰なの」
「なあ、いい加減に……!」
2人の口論がヒートアップし始めた時――
――ドスン。
天井から、何か崩れ落ちる音がした。その音がきっかけで、3人は同じ方向を見て口を止めた。
「え」
「――まさか!」
再生師が一目散に2階に飛んでいく。階段を四つ足でとばしていった。天賦も、なにか嫌な予感がしていた。
上から再生師の声がする。ああ、どうしてこんなに上手くいかないのだと、視界が暗くなっていく。
再生師はすぐに降りてきた。予想通り、その顔はいいものではなかった。
「お兄ちゃん!」
再生師が抱えていたのは、目を虚ろにしている炎砲だ。
全身が水色の液体で濡れていてくったりしている。顔からは意思を感じられなかった。
それは、記憶をおかしくする【保存】というよりも、物体を保存する【保存】にかけられたような姿だった。
「ああ、なんてことだ……」
「触らないで!」
炎砲に近づくキシャの前に立ちはだかる。これ以上何かさせてなるものかと。
「ちょ、あなた……!」
「天賦! これ、前の【保存】よりもずっと強い!」
再生師の手と、炎砲の額の間にバチバチと光が伸びている。彼女の頬に汗が伝っていた。
キシャを睨む。
もう彼の主張を信じる気になれなかった。
「何したの!」
「何を、いいからお兄ちゃんを離してください!」
キシャが天賦を押し退けて再生師に近づこうとする。天賦は彼の腕を掴み、押さえた。
「再生師が治す! 近づかないで!」
「私のお兄ちゃんです! あなた達は信用できない!」
キシャは退かない。天賦は退けない。
揉み合いになるのは自然なことだった。
「ぐっ、嘘……!」
天賦は驚いていた。自分の力ならキシャくらい余裕で押さえつけられると思っていたのに、彼の腕は中々動かなかった。こんなに力がある人間は滅多に見ない。
再生師は2人から離れ、ひたすらに【再生】を続けていた。炎砲の意識を取り戻すため。
再生師は全身に汗をかいていた。この寒い夜の中。
「お兄ちゃんが死んじゃったらどうすんだよ! 誰が私を守ってくれるんだ!?」
「守ってって……意味分からなない!」
外から水が落ちる音が聞こえる。ぱしゃ、ぱしゃと。
ちらりと窓を見ると、色がついた水が空からぼたぼたと垂れていた。早く何とかしないとまずい。そんな考えが生まれ始める。
キシャの胸ぐらを掴み、床に押さえつける。ぐるりと身を回され、立場が逆になる。それの繰り返しだ。
「話して! あなたは何なの!」
「キシャだよ! お兄ちゃんが守るただ1人の人間だ!」
キシャの言葉はおかしかった。兄に守られる、ということをやたらと繰り返している。そこに何の意味があるのか。
――その時、ガチャリと扉が開いた。
「オイオイオイ、何してやがる!?」
「炎砲くん!」
カルメと、ファティの声だ。
やっと帰ってきたのかと安心する。しかしそれで気が緩み、キシャに首を掴み返されてしまった。苦しい。息が詰まる。
「離せよ、クソ野郎!」
カルメがキシャの腕を引っ張り上げ、天賦から離した。ゴホゴホと音を立てて咳をする。
「やめろ! 何するんだ!」
「クソ、このニセ弟が!」
カルメもキシャが偽物だと確信を得ていた。そう叫ばれると、キシャは目を向いてカルメを見た。
「――偽物だと?」
「ウワッ、力強え……ッ!」
ぐぐぐと身を捻り、キシャはカルメの首を締めた。「ぐっ」と苦しげな声がカルメから漏れる。
「私は本物だ! 彼の弟だ!」
「クソッ……気持ち悪りィンだよ、クソカス野郎!」
カルメはキシャの顔を大きな手で鷲掴みにして、足を曲げて靴をキシャに押し付ける。
「い゙っ……!」
手加減なく蹴られたキシャは吹き飛ばされ、机の角に顔を思い切りぶつけた。そのままふらふらと歩き、壁に身を預けた。
その様を青い顔で見る人間はいなかった。ファティも叫んでいない。
そして――別の意味で、天賦たちは目を見開くことになった。
キシャの右側の顔が陶器のようにひび割れ、そこから水色の液体がぽたぽたと垂れている。その姿はもはや、人間ではなかった。
「は……」
その時、カンカンと何か鉄が打ち付けられる音が外から響いた。それが鳴ると、家から人がたくさん出てきた。皆同じ方向に逃げていく。
空をよく見ると、ただの暗い空ではなく、ずっとずっと黒い羽の天井が広がっていた。たまに漏れるものの、色水から住民を守っている。
――キシャはそれを気にすることなく、自身の顔に手を当て、水色の液体を見た。手が震えている。
「は? は、は、は、は?」
「……認めろよ。ニセ弟」
「私は、弟です。お兄ちゃんの弟で、病弱で……」
未だに、キシャは否定を続けた。彼は何が何でも認めないつもりなのだろう。
"相棒"のグリップを力強く握る。天賦は一歩前に出て、キシャを見下ろした。これで終わりにするために。
「炎砲って、本名は何なの」
「……は」
「炎砲の名前。本当の」
キシャは、視線を炎砲に向けてから天賦を見る。
壊れ続ける口を、控えめに変形させて口角を上げた。
「お、お兄ちゃんは呪われる」
「教えて」
「でも、言うと呪感が出て凄く気持ち悪くなるし」
「教えて」
――キシャは、言い淀んだ。
自分の兄なら呪われていようと名前を知っているはずだ。だというのに、キシャは何も口にしなかった。
「名前、知らないんですか?」
「私のお兄ちゃんはお兄ちゃんで、それ以外のものじゃ」
「私は兄の名前を知らない」と、彼はそう言ったのだ。
キシャの顔にヒビが入っていく。
頭を抱える彼に、カルメが一言言った。
「いい加減にしろよ。なァ、呪源」
呪源。その言葉に反応して、キシャは目をぐるんと回した。クェンターレの呪源。その正体を、天賦たちは信じて疑わなかった。
「わた、しは――」
――何かを口にしようとしたその瞬間、キシャの右頬がパリンと割れた。
そこから水色の液体がどばりと溢れ出す。
それに触れないよう、天賦たちは一歩後ずさった。
「再生師、炎砲を守って」
「把握した。」
再生師はまだ【再生】での解除を続けてくれている。彼女は炎砲を抱え直した。
キシャが次に何をするのか見張っていると――
――突然、時が止まったように動かなくなった。
表情は抜け落ち、瞳は何を捉えているのかわからない。
「……どうした?」
その状態がしばらく続いたと思ったら、首を捻らせ、天賦たちを順番に見つめ、自身の顔を力強く掴んだ。
そして、一言呟いた。
「こいつらは守ってくれないんだ」
正確に聞き取れたのは恐らく天賦だけだったが、それが何を意味するのか考えることはしなかった。キシャの動きに目を見張る。そのうち彼は、自ら静かに語り始めた。
――独白を始めたのだ。
「体に、【保存】を、するん、です。脳に、少しずつ、かけるん、です。そしたら、人の、アタマは、おかしく、なるん、です。記憶に、残っていた、少ない、情報、です」
ぽつり、ぽつりと。
自身が何をしたのかを、拙く語る。
「……妹は」
「キシャ、は、彼の妹、でした。たった1人の家族だと、彼は、言っていました。彼の家族は、この世に、ただ1人だけ。だから、殺した」
因果関係が分からなかった。家族が1人だけだから、殺す?
彼の頭の中はどうなっているんだ。
「なんで、殺したの」
それの答えもまた、意味不明だった。
「守って、ほしかった。守られると、気持ちが良かった」
この場で、キシャの言葉を真面目に考えていた人間はいただろうか? 彼に倫理があると思う人はいただろうか?
全員が思ったはずだ。「頭がおかしい」と。
しかし、天賦は彼の行動原理を、そして斃し方を探るため、唾を飲み込み、キシャに訪ねた。
「なんで、守られたかったの」
キシャの顔からさらに液体が垂れる。ヒビは首まで広がり、頸動脈からもそれが溢れていた。
彼は立ち上がった。そしてゆっくりと手を解く。
そこから始まるのは――彼なりの、彼自身の、自首だ。
「あなた達には知性が溶け出す恐怖が分かりますか?」
「……は?」
キシャが話そうとしている内容が天賦にはわからなかった。頭の程度の問題ではない。
「考えたものが白紙になります。言葉が図形になります。景色が糸になります。私は思い出せません。物が止まります。たまに動くのですが、その時は原理がわかりませんでした」
「な、何を言っているのかわからない」
キシャは普通の人間となんら変わらないように微笑む。その姿は普段の彼と同じだが、話している内容は歪だ。口調もどこかおかしい。
「私は辛かったのです。世界のことが分からなくて、孤独に恐怖しました。ですから、彼が私の目の前に現れたことで、私は世界に安心することができました。私を守るものがいてよかったと思いました。私はそれが良いと理解しています」
「天賦、こいつ様子がおかしいぞ……。」
そんなことは分かりきっている。
"相棒"のグリップはいくら握っても冷たいままだった。
「彼はお兄ちゃんで、私は弟です。それで上手くいっているのです。私は孤独ではありません。彼はお兄ちゃんでいられます。よって、私たちの知性が保たれます」
一歩、一歩とキシャはこちらに近づいてくる。炎砲を目指しているのか、それとも天賦たち全員を追い詰めているのか、もはや判別できなかった。
「……下がれ」
「私は孤独でした。同じように彼も孤独です。ですから私たちは兄弟です。つまり私を守るべき存在です」
ぐちゃぐちゃの水が部屋に充満する。
キシャのヒビはさらに広がり、身体中から栓を抜いた樽のように色水が吹き出た。
ひび割れる。ひび割れる。ひび割れる。
「私を守ってください。私を危機から救ってください。かつての英雄のように、私を永遠に守り続けてください」
ヒト型が失われる。そこに残るのは――ただの液状スライムだ。しかし、それはクェンターレの周辺で見たものよりもずっと色が濃く、歪で、おぞましかった。
「守って。守って。知性。知性。知性知性知性守って。知性。守って守って。知性知性。知性。守って」
家の壁がミシミシと音を立てる。
そして――決壊した。




