55話 もう一度
――時間をかけて完成させたパズルをひっくり返されたとか、慎重に積み上げた石を崩されたとか、そういった類いの悲しみを、天賦は味わったことがない。
その手の感情は、経験しないと分からないものである。
「えっと、前に会ったことあるのか? ごめんな。俺、すごく忘れっぽいんだ」
炎砲はいつものように、目を逸らして笑った。
頭に被ったそれはそのままに。
「……炎砲? 私だ! 再生師だ!」
「わ、分からないって……うわ、何だこの水」
髪に手を伸ばし、色水に触れた。
天賦たちはその水にはっきりとした覚えがあった。だからこそ、天賦は彼の腕を掴んだ。
「触っちゃだめ!」
カルメは上を見た。しかし、空に呪源の姿は無い。どこからこの水が現れたのか全く分からなかった。
「あァクソ、どうしろってンだよ……」
カツカツ、と小刻みに足を鳴らした。
炎砲が何かを思い出した直後、ぱしゃんと。「待った」がかけられたように。
「ど、どうしよ、どれをどうするの」
天賦の頭はパニック状態だった。多くのことが同時に起こって、何を処理すべきか混乱した。
すると、天賦と炎砲の間にファティが割って入った。
「……はじめまして。俺たちは旅の者です。ここがどこか分かりますか?」
「え? クェンターレだろ」
「では、あなたの名前は?」
「カ……炎砲って言われてる」
「家族は」
炎砲は一度瞬きをして、右下を見た。返答に少し時間がかかる。天賦は唇に力を入れた。
そして、炎砲は――
「……弟が1人」
"相棒"のグリップを握った。
彼は変なことを聞く人だ、という目をしている。いつもは揺れ動いている再生師の尻尾が動きを止めていたのが目に入った。
天賦はある確信を抱いていた。呪源自身が炎砲に「思い出すな」と言っているようなものだ。それなら、あいつが白だとは思えない。
「キシャをたおす」
「は?」
「オイ待て!」
炎砲には止められるだろうと思っていたが、カルメにストップをかけられるとは思っていなかった。
どうしてだ、と懐疑の目をカルメに向けると、頭を合わせて小さな声で話しかけられた。
「お前さんが考えてるコトは大体分かる。でも今はやめとけ」
「なんで」
「「呪源に近づくな」」
イルネの言葉だ。確かに今日は何もするなと言われたが、その「今日」はもう終わる。
それに、天賦は呪源に近づこうと思っているわけでは無い。ただ家に帰ろうと思っているだけだ。建前上は。
「間違えたらマジで詰みなんだよ、分かるか?」
「……ん」
「いいか、オレはリーダーに避難の準備をさせておけって言ってくる。だから今は、まだ、こらえろ」
"相棒"を握る手に力が入る。確かなこととして、天賦は「オーガン」に対してどのような対策を取ればいいのか不明瞭だ。一つだけ案があるが、それでもあの量全てを斃しきることが可能とは思えない。
シュルトカの時のように夢さえ見られれば。
「すみません、俺も一旦失礼します」
「ファティも? 何故だ?」
「術力車を見てほしいと言われているんです。本当にすぐ戻るので、その……」
ファティはポケットからハンカチを取り出して、それを炎砲に渡した。
「……乗り切りましょうね」
ファティとカルメが路地の角を曲がった。残された2人は顔を見合わせる。ただ、そこから何かが始まるわけではなかった。
「なあ、さっきキシャを倒すって言ったよな。どういうことだよ」
「聞き間違え、だと思う」
「いや、言ってたはずだ。そもそもなんで俺の妹の名前を……は?」
炎砲は自らの口を塞いだ。彼は自分から「妹」と言ったのだ。完全に記憶が洗い流されたわけではないようである。
「……とにかく、私たちのことは炎砲の同居人に聞けば分かる。家に帰ろう。」
「え、わ、分かった、けど……」
再生師は戸惑う炎砲の腕をとった。彼はハンカチで自身の頭を拭きながら立ち上がる。
天賦は怪物の寝床に向かう気持ちで再生師に着いて行った。
帰路についている間も、炎砲は何度も振り返って天賦たちを見た。今回は彼に特別警戒されている。キシャを倒すと言ったのが良くなかったかもしれない。
今日は炎砲の家に着くまで時間がかからなかった。ずいぶん短く感じたのだ。見覚えのある道を通るたびに鼓動が大きくなっていった。
そして今、天賦の目の前には扉がある。炎砲がドアノブに手を伸ばす様を、唾を飲んで見つめていた。
「ただいま」
明るい室内に影が落ちている。それの持ち主は、茶髪で眼鏡をかけた青年。
キシャ、と呼ばれるナニカだ。
「お、起きてたの」
「ちょっと、お兄ちゃんを連れ出して何してたんですか?」
「……いや、特に何もしていないぞ。」
再生師が息を呑むのが伝わってきた。
「いやなんか濡れてるじゃないですか! ねえ、大丈夫?」
「……ああ、大丈夫だよ」
炎砲は体をキシャに向けてはいるが、こちらに目線を向けていた。これで自分たちが不審な人物でないと伝わったはずである。
「本当に? なんかされたりしなかったの?」
「いや、そんなことないって。多分」
記憶が消えた、とはキシャに説明しなかった。
"相棒"の鞘を撫でる。対人が比較的得意なカルメとファティはこの場にいない。再生師とこの場を任されたのは少し不安だった。
「料理人の人とマスクの人は?」
「ちょっと、用事」
「だがすぐに戻ってくるぞ!」
再生師の笑い方は少しぎこちなかった。
天賦は今までに無いタイプの緊張の仕方をしていた。会話をしくじったら終わる、そんな機会に立ち会ったことなんてない。
「えっと、ご飯にしようか? すぐ作るよ。……あとであんたらのこと教えて」
「……うん」
"相棒"を抱きしめる。早くカルメやファティに帰ってきて欲しい。
ふと見ると、キシャは何かの本を抱えていた。紫色の表紙だ。彼の部屋で見た覚えがある。
「……それ、何?」
「これは私のお気に入りの本です。最近演劇にもなったって聞いて」
「見せてやれなくてごめんな」
「いや、全然良いんだよ!」
最近の演劇と言うと、あの騎士と姫のやつだろうか。そういうのを好むようには見えない。……そもそも、物語を読む必要があるのかどうかも。
「ああ、最後が感動的でいいよな。たしか……」
そこで、炎砲の動きが止まった。
天賦を、再生師を見て、額を抑える。
「あれ、俺って……」
『どうしてここまで私を助けに来てくれたのですか』
「俺は、何を……」
『それは一重に、あなたを愛しているからです』
「何だっけ……俺、俺は……」
『空の上であろうとも、地の底であろうとも、必ずあなたを救ってみせます』
「何か、忘れてる……?」
「お兄ちゃん」
炎砲は顔を上げた。ぴたりと言葉が止まる。
「……疲れてるんじゃないかな」
キシャは炎砲の肩を優しく押さえた。いつもならただの兄弟のしぐさにしか見えないが、天賦には気味悪く映った。再生師も瞳孔を縮めている。
炎砲はキシャを見て、小さく微笑んだ。
「そうだな、なんか色々混乱してるみたいだ」
「先に休んだがいいよ。ご飯はどうにかするからさ」
「いいのか? ありがとうな」
天賦たちを一瞥して、炎砲は2階に上がっていった。1階に残ったのは天賦、再生師、そしてキシャである。
炎砲がいなくなって、一言何かを発する者はいなかった。彼のすらっとした背中が恐ろしく見える。
キシャは2人を睨んだ。――睨んだように見えた、かもしれない。
「で、何があったんです」
「な、なにって」
「頭が濡れてたじゃないですか」
お前の仕業だろ、なんて言えなかった。
まるで何も知らないみたいな顔で聞くものだから、天賦は少し苛立った。"相棒"を撫でて心を沈める。
「……水が入った皿をひっくり返した」
「そ、そう、私が尻尾でひっかけてしまって、ついな。」
キシャの表情の変化に目を見張る。彼はずっと天賦を見つめていた。目を小さくして、瞳孔を広げて。
一歩、二歩と2人に近づく。背丈はさほど変わらないのに、彼の姿が大きく見えた。
「――何を隠してるんだ?」
"相棒"から手を離した。
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――カルメは、ファティと共にニーデン傭兵団の元へ向かっていた。車を直していたメイド長と、マーマレードも共に。
術力車をカルメとファティとメイド長で押しながら拠点を目指す。3人の力であれば術力車を動かすことは容易かった。
「あ、あの! どうして傭兵団のとこに運んでるんですの!?」
「コレ、オレらの家なんだわ。高いトコに避難させないとマズい」
「だから、その避難の意味を知りたいのです!」
マーマレードはぱたぱたと走りながらカルメに聞く。比較的身長が高い3人とは歩幅が全く違うので、置いて行かれまいと必死だった。
「呪源とのバトルが始まンだよ」
「じゅっ……!」
マーマレードは絶句した。
こんなこと聞いたら誰だって目を丸くする。
「で、でもどうするのですか! 相手は液状スライムですのよ!?」
「ええ。ただでさえクェンターレは戦闘魔法を使える方が少ないのに」
「秘密兵器があンだよ。ま、使えるか怪しくなってきたけどな」
「なおさら心配ですわ!」
炎砲の消えてしまった記憶は再生師が再びどうにかしてくれるかもしれないが、彼女の魔力を消費することを考えると、それに頼り切るのは良い考えではない。
カルメは内心焦っていた。状況説明は自分とファティが向いているが、それでも、あの2人を置いてきたのがはたして最善の選択だったのかと後悔している。
とっととイルネに避難を指示して、キシャと天賦たちを仲介しなければと思っていた。
あの、少なくとも弟ではない青年。
「なァ、「キシャ」って知ってるか?」
「キシャ……人名ですか?」
メイド長は眉を顰めた。何か少しでもヒントがないかと思って聞いたのだ。情報が得られなくても仕方ない。
「し、知ってますわ! 私知ってます!」
「なっ、お前さんが?」
マーマレードが手を挙げるのは意外だった。だって、彼女たちは外部の人間だから。
「キシャはキシーリヤちゃんのことですわ!」
「……キシーリヤちゃんですって?」
「キシーリヤ」は女の名前だ。あの青年につけるような名前じゃない。
「ずうっと前に会ったことがありますの! 5年以上前に。でもここが囲われてから見なくなって、だから、おかしいなって思ってて……」
「……ははっ、そりゃおかしいなァ」
思わず笑いがこぼれた。面白かったわけではない。
カルメの中で、もう「怪しい」なんて感覚はなかった。既に確信を得たからだ。
「もしかして、あの子になにかあったとか……」
「なにかってか、オレらも分かンねェけど――」
「――カルメさん、止まって!」
ファティが叫んだ。
メイド長の肩を掴み車を押すのを止める。――すると、空から液体がべちゃ、と落ちてきたのだ。
「コレ、呪源の……!」
「この液体……一体どういうことですか」
「メイド長、見えるんですの?」
メイド長はマーマレードの声に頷いた。
そうしているうちにも、他の場所にどんどん液体が落ちてくる。まだ見て避けられる範囲ではあるが、それも時間の問題だろう。
「限界が近づいてる」
「クソ、急ぐぞ! ソレには絶対触ンなよォ!」
カルメはやむなし、と唱え、黒の翼で液体を遮る屋根を作りながら走った。マーマレードの驚きは無視する。
町を走っているうちにマーマレードが遅れ始めたので、ファティは車の中に乗せた。彼女は小柄なのでさほど影響はない。マーマレードは修理中の車の中で身を縮めた。
「あ、私死ぬんですの……?」
彼女は顔を青くして、町に広がる液体を見た。
「死にません。オレンジと砂糖を煮込んだお嬢様は必ず守ります」
「マーマレードですわ!」
先ほど、この液体に触れた炎砲は記憶を失った。それと同じ効果があると思って行動するべきだ。
もしや、天賦たちが何かやらかしたのでは。「こらえろ」と言ったはずなのに。
「頼むぞ嬢ちゃん……」
カルメには重い足を動かす速度を早めた。ニーデン傭兵団の拠点はすぐそこである。




