113話 楽園の王、或いは
——天賦の優秀な視力は、ファティの小さな瞳が何色であるかをよく捉えていた。
「ファティ……」
その目を見た瞬間、信者たちは連なるのをやめて跪き、ファティがいる場所から祭壇まで一直線の道を作った。天賦たちと、ファティの間に遮るものは何一つとして存在しない。
ファティはギャラリーから降りて、信者を一瞥することもなく前に進む。そんなはずがないのに、天賦はその姿がまるで王のように見えた。
ファティは祭壇に着く前に、天賦たちとは少し離れたところで足を止めた。強張った体から少しだけ力を抜き、不恰好に笑う。
「……ごめんなさい。ちゃんと説明しようと思っていたのに、できませんでした。本当に、すみません」
ファティは頭を下げる。天賦はまだ、この状況を完全に飲み込むことができていなかった。本当に、彼が「金眼」なのか? と。
ファティの耳からは血が流れている。しかし、彼がそれを気にする様子はなかった。
「……呪源は封印されているんでしたよね。それでは、斃すことができないと」
ファティは天賦の先の、紫の本を見ている。今までなら彼がどこを見ているのか分かりにくかったはずなのに、現在、彼の目線はとても分かりやすい。何を見据えているのか容易に理解できる。
「必要なものは、英雄の武器と、そして「王」。……これで、斃す準備はできましたよね」
震える手をぐっと握り、ローブの中にその拳を隠す。ファティの目はどこへも逸らされなかった。
「え、ま、待ってよ」
「……隠していて、すみません」
ファティは眉を下げて、また謝る。
「いや、え、ファティ」
「何ですか、炎砲くん」
「その、隠してたとかはどうでもいいよ。でもさ、王になるってことがどういう意味なのか、分かってるだろ」
楽園教が求めている「金眼の王」。それが、ただ王座に座るという意味ではないことを、天賦も分かっている。
呪源を復活させるために必要な、人柱である。
「はい。嫌、というほど」
「じゃあ、待って、何で」
「……どうしてでしょうね」
ふ、とファティは苦しげに笑った。
「俺、生きたかったんです。ひたすら、死にたくなかった。でも、思い返してみたら、それに理由なんてなかったんですよ」
天賦は、前にファティと真夜中に2人で話した時のことを思い出す。
——死にたくないから、生きてきました、と。
「だから……いや、ごめんなさい。まだ頭の中がごちゃごちゃで。うまく言葉にできなくって……」
「……ファティ、どうなるの?」
天賦は、心の底では分かっていたのに、何も理解できていない子供のような質問をした。
「その先のことは、俺にも分かりません。でも、絶対に死ぬってわけじゃない、はずですよね」
「だが、贄という言葉は……。」
何も無しに生き残ることがありえるのだろうか。四肢をもぎ取ってでもカルメを確保しようとした信者たちを思い出す。間違いなく、無事では済まない。
「……でもよ、コレ以外に呪源をブッ斃す方法ってねェよな」
「カルメ……!」
「事実だろ、それは」
このままでは呪源を殺すことはどうやったってできない。そのために、金眼を捧げることが必要。それは何があっても覆らない真実だ。それから目を逸らすことはできない。
「……他に、金眼の人を見つける、とかは。」
「この世のどこに、俺と同じ人がいるんでしょうね」
再生師の絞り出したような提案に、ファティは皮肉っぽく言った。どこか、諦めたような、それか決意したような、曖昧な声色だった。
ファティは一歩、祭壇へと進む。その行先を、炎砲がその小さい体で塞いだ。
「待てって! まだ、他の方法があるかもしれないだろ」
「……俺、みなさんと妖精の島について行ったのはそれが理由だったんです。何か他の方法があるんじゃないかって。……でも、そんなものはなかった」
妖精の島には呪源自体に関する大きな情報はほとんどなかった。それは、天賦たちも理解している。
「……冷たいかもしれねェけどよォ。他の方法があったら、このカルトが血眼になって金眼を探す理由がねェだろ」
「それは、そうかもしれないが……。」
再生師の尻尾は動いていない。
「聞いてください。俺は、死にに行きたいわけじゃない。ただ、それ以外に方法がないからなんです。英雄的な自己犠牲精神からではなく、合理的に、現実的に考えた結果なんです」
それは、まるで自分自身に言い聞かせているかのような言葉だった。本心からなのかは分からないが、ファティの行動は天賦たちの目的を達成するには必要不可欠である。
「そういう問題じゃないだろ……」
炎砲は俯き、溢れ出そうになるものを押さえながら言った。
天賦たちが知るファティは、不運で、臆病で、理性的な人間だ。今の彼は、その人物像から外れているようで、いつも通りの彼そのものである。
「……俺を信じてくれませんか?」
声が震えているのを聞かないフリはできなかった。
正直、天賦は今までのファティを何も知らない。どんな生活をしてきて、どんな人生を歩み、結果天賦たちに出会ったのか、それ全てを把握していない。
だが、ここまで旅をしてきて、彼がどんな人物なのかはその身を持って思い知った。過去を知らないからといって、彼を知らないわけではない。
彼がこの決断に至るまでに、天賦の想像がつかないほどの葛藤があったに違いない。それはきっと、彼のアイデンティティに直接するものだ。
「ファティ」
「はい」
天賦は彼の名前を呼び——
「ん」
ファティに向けて、その小指を差し出した。彼はそれをきょとんとした顔で見つめている。
「約束。帰ってくるって」
天賦は、信者たちの願いを叶えるためにファティを「金眼の王」にしたいわけではない。
ただ、天賦が否定するよりも、彼が悩み、出した結果を尊重すべきだと思ったのだ。
ファティは一瞬だけ口を歪め、目を細めて同じように小指を出した。それは組み合わさり、指切りの形になる。
「はい。約束します」
天賦も、呪源を斃すためとは言え彼に死んで欲しいわけじゃない。一握りだけでも希望があるならばそれに賭けるのが、彼女のやり方である。
天賦とファティの指が離れる。それから、ファティはうなじを撫で、「あの」と声をかけた。
「もしよければ、ハグしてくれませんか」
普段の彼なら、恥ずかしがって絶対に言わないような言葉だ。彼から腕を広げることはありえなかった。その願いを、天賦は簡単に了承した。
天賦は強めに彼の体を抱きしめる。ファティは苦しいな、と言いながらも、どこか嬉しそうに腕を回した。
腕が離れて、ファティは再生師を見る。彼女は睫毛を下げながら、おずおずとその腕を出した。
彼女はその大きな尻尾を彼の背に回すかと思ったが、そうはせず、自身の腕だけでファティにハグをした。その姿は、少し子供っぽい。
「ほら、オレのも欲しいか?」
「お願いします」
カルメは人間の腕を広げ、天賦の真似をするようにファティを抱きしめた。カルメはファティの頭をわしゃわしゃと雑に撫で、彼の黒髪をそこらじゅうに跳ねさせた。まるで、初めて会った時のファティと同じような状態である。
「……炎砲くん」
ファティは小さな赤髪の頭を見る。炎砲は自身の服を握り、大きなシワを作っていた。
「お願いしてもいいですか」
「……俺は」
炎砲の声はがたがただった。覗き込まなくても、彼がどんな表情をしているのかは想像できる。
「もう、誰も、いなくなってほしくなくて」
普段は年上として、天賦や再生師に世話を焼いていた炎砲が辿々しく言葉を紡いでいる。
「もう誰も」。彼が言った言葉の意味を、天賦は、天賦たちは理解していた。
ファティは炎砲の前にしゃがむ。そして、彼を待たずに腕を小さな背に回した。
「……炎砲くん。ありがとうございます」
炎砲はファティの肩に顔を埋める。
「俺も、いなくなりたくないですから」
小さく跳ねる炎砲の背を、ファティは優しく叩く。それは炎砲の手つきによく似ていた。それはとても長く、短い抱擁だった。
ファティは立ち上がる。彼が見据える先は、本と盾が飾られている祭壇だ。それを、彼はまるで仇を見るかのような目で見ていた。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
一歩、一歩と祭壇へと歩く。その途中、彼は何度も立ち止まった。しかし、振り返ることも、後ずさることもしない。
——ただ、その足は震えている。まるで、鉛のような体を意思で無理やり動かしているようだった。ファティの心臓の鼓動が、天賦にまで伝わってくる。
信者たちは跪いて姿勢を崩さない。しかし、フードの中からぎらついた目が覗いているのが見えた。全員殺してしまいたい気分だったが、そんなことより、ファティの覚悟を見届けることを優先した。
ファティは時間をかけて、低い祭壇へと登る。その目に、呪源は一体どう映っているのだろうか。
「……はっ」
彼は息を吐いた。
着ていた黒いローブを脱ぎ、それを力任せに捨てる。耳に触れ、その血を指でなぞった。
彼の腕は痙攣しているのかと見紛うほど震えていた。一歩前に出ようとした再生師をカルメが止める。
ファティは自身の目を抑え、それから震えを収めるために腕を掴む。
「……頑張れ、俺」
小さな呟きは、天賦の耳にだけ届く。
ファティは手を出し、指を曲げ、それを一度引っ込めてから——
——呪源に、触れた。
瞬間、天賦の目の前に黒い嵐が吹き荒れた。——よく見ると、それは風ではない。天賦には解読不可能な、文字の集合体であった。
「ファティ!」
その中心にいるファティの顔が、だんだんと見えなくなっていく。信者たちの声は天賦たちに届かなかった。
手を伸ばそうとした時、嵐に押されて天賦たちは吹き飛ばされた。
「ファ、ティ……!」
姿が見えない。
巻き起こる竜巻の中、一つ静かな声が聞こえてきた。
「一つ、だけ」
天賦は、その声を聞き逃さないために必死に意識を保つ。彼の形が、かすかに隙間から見えた。
「もし。もし、呪源が復活した後、斃してくれた後、俺がそこにいたなら——」
ファティは少しだけ振り返り、瞳の色を見せた。
彼は、泣きそうな顔で、笑っていた。
「——「おかえり」って、言って欲しいな」
天賦の視界が、暗転した。




