112話 最悪最低災厄災難な日々
ファスタイアは不運な男であった。
どれくらい不運かというと、産まれて目を開けた瞬間に「これは誰の子だ」と疲れ果てているはずの両親が口論を始めるほどの恵まれない子供だった。
彼の母は茶色の目をしていた。彼の父は青の目をしていた。彼の兄は茶色の目をしていた。
だが、ファスタイアの目は黄金色だった。
ファスタイアの家系に黄金の目を持つ人間は誰1人として存在しない。良好であった夫婦の関係は、ファスタイアを理由に崩壊した。そして、時が経っても、彼の顔は父母にも、祖父母にも似ていなかった。
事実、ファスタイアは紛れもなく母と父の血を引く子供である。しかし、それを信じる者は誰もいない。ファスタイア自身でさえ、自分が隠れた愛人の子供であると疑わなかった。忌み子として捨てられなかったことを幸運に思うくらいには、彼は不運だった。
聞けば、この世に金色の目を持つ人間はほぼいないらしい。それを知って、ファスタイアは自分はこの世で一人ぼっちなのではないか、と思った。
1人で勉強した。1人で遊んだ。帰ってきた彼に「おかえり」と言ってくれる人間はいなかった。
そうしているうちに、ファスタイアはこれが正しいことなのかもしれないと思い始めたのだ。自分はこういう星のもとに生まれてきたのではないか、と。
しかし、それから起こる事柄に比べれば、冷え切った家庭での生活など些細な不幸であったのだ。
ファスタイアが13になる頃。
兄の誕生日を祝った日、彼らの元に黒いローブを揃って着た集団がやってきた。ファスタイアは物陰に隠れて、父と黒布の男の会話を聞いていた。
そして、こんな言葉が聞こえてきた。
「金色の目の子供を売る気はないか」と。
——地面が崩れて、落ちていくような感覚に陥った。間違いなく自分のことだ、とファスタイアは恐怖した。
その頃、魔力回路についての画期的な技術が生まれたとかで魔道具の価値が下がり、両親が経営難で苦しんでいたことを彼は知っていたから、出される金額によっては父はその条件を飲んでしまうのではないか、と危惧していたのだ。
そして、不運なことに、父はそれを承諾した。
ファスタイアは当然、逃げ出した。しかしあっさりと捕まってしまったのだ。他の誰でもない、彼の母に。
どれだけ嫌がっても、母は何も言わなかった。腕にも、足にも縄を巻かれて、小さく折り畳まれて。それが、ファスタイアが母に触れた最後の記憶である。
それから、荷台に乗せられた。大勢の黒いローブがファスタイアを見下ろしていて、肺に空気が十分に入らない。その視線が、彼の体の奥深くまで染みついた。
「だれか、たすけて」
その声は誰にも届かない。ただ、荷台が揺れる感覚だけがファスタイアの声に応えた。
連れて行かれた先で、ファスタイアは薄暗い牢に入れられた。男たちはぶつぶつと、ファスタイアのことを「王」だの「金眼」だの形容して、拝んでいるのか見下しているのか分からない態度をとっていた。
——それから、ファスタイアにとって、長い、長い、長い、長い、長い日々が始まったのだ。
一日中、光のない空間で過ごす。今が朝なのか、夜なのかも誰も教えてくれない。聞こえてくる人間の声も、狂っているとしか思えないようなものばかり。
その声から、ファスタイアは呪源のこと、金眼が何の役に立つのかを知った。自分は「英雄の武器」が手に入るまで生かされるのだ、と。
このままでは贄にされる。その事実を知ったのに、ファスタイアにできることはなかった。ただ、たまにやってくる黒いローブを地べたから見上げるだけ。
一、目を開ける。
ニ、食事が渡される。
三、土に顔を埋める。
四、目を閉じる。
ただの、それらの繰り返し。疲弊した頭に突破口は何も浮かばない。
ファスタイアにとって、その狭い檻の中での生活は一万年に該当した。伸びきった髪によって遮られる視界も、もはや彼の感情を動かすことはできない。
食べ物も、水も、必要最低限——いや、それ以下の量しか与えられない。筋力も衰えた頃、彼に反抗する気なんてほとんど残っていなかった。
だから、たまたま、黒いローブの男が牢の鍵を閉め忘れていたことに気がついた瞬間も、彼に気力は湧かなかった。動かない体が、己の惨めさをありありと主張してきただけ。
目を伏せ、盆に反射する自身の目の色を見た。ああ、自分はこういう星のもとに生まれたのだ。
——そう、思った時。ファスタイアの頭の中で、ピン、と糸が千切れた。
思い返してみれば。
自分は何も悪いことをしていないではないか、と。
自分が悪行をしたから目の色を変えられたわけではない。自分が言いつけを守らない子供だったから両親に売り飛ばされたわけではない。
なら、なぜ自分はここにいる?
その疑問が浮かんだ瞬間、ファスタイアの中でぐつぐつと明るい色の液体が煮えたぎるような感覚がした。
地面を抉り、爪の間に土が入り込む。暗い色の泥くずを、彼は持ち上げる。それが形を崩してぼろぼろ小さくなって落ちた時——彼は、気がついた。
ファスタイアは、ずっと世界を恨んでいたのだ。
どうして自分は誰にも似ていない顔になった?
どうして両親は自分をカルトに売った?
どうして自分は「金眼」で生まれた?
なぜ自分が。なぜ自分が。なぜ自分が。
空腹と苦しみの中、ファスタイアは思い立った。
——逃げよう。
ファスタイアは自身の記憶よりもずっと細くなった腕を伸ばし、立ち上がった。少し動かすだけでもがくがくと震え、長い間2本の足を使うことさえなかったというのに、その時は、なぜだか走ることができた。
黒いローブの目を掻い潜り、ひたすら長い階段を登った。口から透明な液体を吐きながら、光の刺す方を目指した。
その先で、彼が見つけたのは、車輪が四つついた屋台——術力車だった。恐らく、黒服の男たちがどこかから盗み出したもの。
ファスタイアは家での経験から、それがどんなもので、どうやって動かすことができるのかを知っていた。
この足では逃げ切ることはできない。それなら、とファスタイアは術力車に乗り込み、微かに残った魔力でそれを動かした。
その車を走らせている最中、何度も背後を確認した。腹を突き破って何かが出そうになる感覚を抑えながら、ずっと、ずっと幽閉されていた場所から逃げ出した。
しかし、すぐに限界は来た。
ある程度明るい森に出て、ファスタイアは術力車の中で倒れた。水分不足と、栄養失調が原因である。
せっかく逃げたのにこんなところで終わるのか、と己の人生の無意味さを実感してしまいそうになった時、ファスタイアの鼻腔を何かのにおいが刺激したのだ。
ファスタイアは扉を開けて、車から這い出る。
そして、彼はそれを見つけた。
足と、手と、胴と、頭がある黒く大きな物体——つまり、焼けた人間だった。
魔獣の魔法で死んだのだろう、黒焦げで、それがすでに生きていないことなんてすぐに分かった。
腹が痛かった。喉が乾燥していた。
焦げ臭い匂いが嗅覚を刺激した。死体の周りも所々焦げていて、踏んだ草が粉々になる。木の肌も黒くなっていた。
腹が痛かった。喉が乾燥していた。
街がどこにあるかなんて分からない。案外近くにあるかもしれないし、ずっと先かもしれない。自分が地理に詳しかったらもっとやりようがあったはずだと、ファスタイアは回らない頭で後悔した。
腹が痛かった。喉が乾燥していた。
腹が痛かった。喉が乾燥していた。
腹が痛いから。喉が乾燥しているから。
顔を埋めた。
——それから、彼はひたすら逃げて回った。
やっと辿り着いたソエルソスに身を隠した。
黒いローブを見て、ムーナウーヴァまで逃げた。
明人に合わない気候のガフタで仕事をした。
奴らの噂を聞いてクスカルに身を移した。
血迷って船に乗ってアマツまで逃亡した。
どこへ行っても、見られている感覚がする。四六時中追いかけ回されている気がする。隣にいる人間があの黒フードの仲間なのではないかと錯覚する。
今にも後ろから手を伸ばされているんじゃないかと心臓が鳴って、ファスタイアに定住なんてできやしなかった。彼は、とにかく逃げて、生き延びることを選択した。
自分専用の、目の色を誤魔化すための魔道具まで作ってもらった。それまでは黒い眼鏡で誤魔化していたが、一日中そんなものをつけていたら怪しまれるだろうから。
一度「逃げよう」と決心した彼は、ドブの中で卵を産むような虫と同じくらい、いや、それよりも遥かにしぶとかったのだ。
ファスタイアに、明確な生きる理由は何もない。彼には大切な物の一つだってありはしないのだから。
ファスタイアは術力車を運転する時、度々思うのだ。「こんな、逃げ続けるだけの人生に何の意味が?」と。
孤独で、不幸で、不運な生涯に嫌気がさしていた頃——彼らはやってきた。
「——大丈夫?」
天賦という少女と、魔王だと話すカルメ。
彼らとの出会いは、ファスタイアにとって良くも悪くも電撃のようなものであった。
彼らと出会ってから、ファスタイアの人生は滅茶苦茶に変化した。
命を救ってもらったと思えば、世界を救うだなんて大層な目的のために同行させられた。
呪いの成れの果てに、魔獣に追いかけ回された。
ファスタイアが黒い影から逃げるための旅路は、天賦たちの目的を達成するための道筋と化したのだ。
——そして、ファスタイアにとっての一番の衝撃。
「なんか、真っ黒の集団に金眼?だか何だかに間違われて追いかけ回されててよォ」
「……え」
カルメが金眼だと勘違いされたと聞いて、ファスタイアはいの一番に思った。
——やっと、俺に幸運が回って来た、と。
楽園教は、金眼であれば誰でもいい。カルメに夢中になって、かつて取り逃した男のことなんて忘れているだろう。奴らの誤解が解けないことを祈った。
楽園教の狙いはカルメだ。もはやファスタイアではない。その時、ファスタイアは初めて天賦たちを乗せて良かったと思ったのだ。
ついに、ついに平穏が。逃げ続けるだけの日々に終焉が訪れるのではないか、と。
彼らを利用すれば、ファスタイアの本当の人生が取り戻せる。そう、期待を、希望を抱いた。
——そして、その計画は程なくして瓦解する。
「ファティもおかえり」
クェンターレという町の、炎砲と呼ばれる少年のような男に、ファスタイアは初めて「おかえり」と言われた。
ファスタイアは最初、それが自分に向けられているものだと理解することができなかった。
その言葉が、天賦からも、カルメからも、再生師からも飛んできた。誰からも帰りを歓迎されなかった彼に、帰る場所なんてどこにもないはずの彼に「おかえり」と。
……たったそれだけの、ありふれた4文字に、ファスタイアはあっけなく救われた。
それから、旅を続けていくにつれ、ファスタイアが「おかえり」と言われる機会も増えていった。あれだけ、誰かに言って欲しかった言葉が、価値が薄れそうになるほどファスタイアに降りかかったのだ。
天賦たちに黒ローブの幻影を見ることもない。彼らの隣で眠って、いくつもの手が伸びてくる感触を味わうこともない。何がどうして、自分はこんなにも満たされているんだ、と。
そして、ファスタイアも勇気を振り絞り、彼らに「おかえり」と震える声で言ったのだ。
彼らは当然のように「ただいま」と言う。ファスタイアがその一往復だけのやり取りを幸福だと思っていたことを、天賦たちは知らないだろう。
……そして、その夜がやってくる。
肩の力を抜き、ベッドのシーツを抱きしめて寝転がった時、ふいにファスタイアの手が自身の耳飾り——目を隠すための魔道具に触れた。
ファスタイアは、そこでようやく気がついたのだ。
天賦たちの目的は「呪源を全て斃すこと」。ファスタイアが楽園教に必要とされた理由は「呪源を解放するため」。
——そう、ファスタイアが「金眼の王」にならずして、天賦たちの願いを叶えることは不可能なのだ。
それはすなわち、ファスタイアに過去へと逆戻りして、黒ローブたちに幽閉されていた頃に戻れと言っているのと同義なのである。
ファスタイアの禁忌そのものだ。人生をかけて目を逸らし続けたタブー。
今までのファスタイアなら、間違いなく自分の安全を優先した。他人のために、死ぬかもしれないことに身を投じる意味がない。
だが、今や、天賦たちはファスタイアにとっての「他人」ではなかった。「帰る場所」である。
生きることに意味を見出せなかったファスタイアが、初めて前向きに生きようと思えた理由。
カルメのため。再生師のため。炎砲のため。
——天賦のため、自分が役に立てるのなら。
ファスタイアは、かつて自分が捕えられていた場所に舞い戻っていた。眼前には天賦たちが、自分の目を驚いた顔で見ている。
ああ、事前に言おうと思っていたのだ。「俺は実は金眼で、呪源を斃すために金眼の王になって呪源を復活させようと思う」と。ちゃんと言わないと迷惑になるし、きっとショックを受けさせてしまう。そう思って、いたのだ。
だが、口は動かなかった。動かせなかった。
長年「金眼」から逃げ、目を閉じ、耳を塞いできたのだ。こんなに大好きな人たちなのに、言葉にする勇気が出ない。
たくさんの言葉で、ファスタイアは自身を罵った。
情けない。このヘタレ。腰抜け。根性無し。
ただ、金眼と口にするだけの行為ができないなんて。
自分が過去を完全に受け入れることができなかったあまりに、こうして驚かせる形になってしまった。
「——ファティ」
天賦の口が、小さく動く。
でも、大丈夫。もう、覚悟はできているから。
ファスタイアは、間違いなく不運な男であった。
しかし——
——ファティは、彼らと言う存在に巡り会えた、この世でいちばんの幸せ者である。




