052
ミドリが不忍池の周囲を歩いている頃、藤村は北鎌倉の靑栁家へとやってきていた。
和室に通された藤村は、茶室に置いてあるような煙草盆を傍らにして、時おりキセルをふかす五十過ぎの男と向かい合う形で、日頃はしない正座をしている。雪見障子の向こうには、剪定の行き届いた松、石燈籠や太鼓橋、鯉が泳ぐ池などが見え、鹿威しがコーンと小気味良い音を響かせている。
「いやぁ、悪いね。こんな場所まで出向いてもらって。儂とて、目が不自由でなければ、バスで銀座の洒落たカフェーへでも行って話したいところなんだがね。ホッホッホ。忙しかったんじゃないのかね?」
ミドリの伯父の頭には、白髪に交じって亜麻色の髪が生え、眼病を患って弱視が始まったという瞳は、加齢による黄濁はあるものの、元は橄欖色であったことが伺える。ミドリの外見上の特徴は、父方の遺伝なのである。
「いえ。こちらから、ご相談を持ち掛けた訳ですから、都合を付けるくらいのことはします」
「そうかい。まっ、こっちは封筒の記名以外は、細君か女中の口述筆記だから、大した手数は掛ってないがね。仕事も若い者に任せて、暇を持て余しているところでもある」
燃え尽きて煙が出なくなったところで、ミドリの伯父はカンと灰吹きの縁で雁首を軽く叩いて灰を落とし、煙草入れから出した刻み煙草を丸めて火皿に詰めながら言う。
「それで、何をやらかしたのかね? 怒らないから言ってごらんよ」
「はぁ。実は、ミドリさんから結婚を申し込まれまして」
俯き加減で藤村が気恥ずかしそうに白状すると、ミドリの伯父は、雁首を炭火に近付ける手を止め、訝しげに訊ねる。
「ミドリは、君の子を身篭ってる訳ではなかろうね?」
「まさか。同衾どころか、接吻もしたことありませんよ」
あらぬ疑いをかけられた藤村が急いで否定すると、ミドリの伯父は、再びキセルを火に近付けつつ、面白くなってきたとばかりに身を乗り出し、話を続ける。
「節度ある付き合いだというのだね。まぁ、紳士録に名を連ねる方であるから、信用しよう」
そこで言葉を止め、ゆっくりと充分な時間をかけて肺に紫煙を満たすと、眇めた目で藤村を検めながら言う。
「声にハリがあるし、顔や手に目立ったシワは無さそうに見えるが、三十手前といったところか?」
「いえ。弟さんと同い年です」
「何だって。――ブエッホン!」
興奮したミドリの伯父が派手に噎せると、藤村は膝立ちで座布団から降りてそばへ寄り、背中をさする。
ミドリの伯父は、キセルを煙草盆の縁に渡して置くと、藤村に座布団の上へ戻るように片手で示す。そして、藤村がスラックスの膝をつまんで再び正座し直すと、ミドリの伯父は、拳を当てて小さく咳払いしてから、仕切り直す。
「ということは、つまり、四十の坂を越えてる訳だね?」
「さようです。外遊中に、いろいろありまして」
「人魚の肉でも食べたのかね?」
「いえ。でも、それに近い体験を」
「だろうな。いやしかし、そうなると、話が変わってくるな。いくらミドリが若いとはいえ、彼女は君より先に黄泉へ旅立つぞ? それでも構わんのか?」
「僕は、ミドリさんさえ良ければ、とは思うのですが……」
藤村が視線を上げ、言外に意見を求めると、ミドリの伯父は、キセルを持ち直して一服してから、考えを口にする。
「まぁ、ふたりさえ良ければ、儂も及ばずながら、応援してやろう。だが、世間の風当たりは強いだろうし、もし、ミドリの気が変わって、見合い相手の方が良いと思ったのであれば、潔く身を引くんだぞ。良いかね?」
「はい。ありがとうございます」
膝の前で両手をつき、藤村は深々と頭を下げて感謝の意を表した。




