第三章 数字の向こう側
二月になって、海外事業部から追加の方針が示された。
標準化の期限が、明記されていた。
十八ヶ月。
山下は社内の会議室で、その数字を見た。十八ヶ月で、十五年分の設計を書き直せ、ということだ。
「物理的に不可能です」山下は言った。
会議室に、上司たちが並んでいる。川島部長、その上の本部長、さらにその上の役員。山下はこの会議に、技術担当として呼ばれた。
「不可能、というのは」役員の西岡が言った。六十代、白髪、声が静かだ。「どういう意味で不可能なのか、説明してくれ」
山下は資料を開いた。
「設計の変更には、計算の見直し、試験、検証が必要です。一つの系統を変えれば、他の系統への影響を全部確認しなければならない。それを十八ヶ月でやれば、確認作業が必然的に省略される。省略された確認の中に、見落としが生まれる可能性がある」
「見落とし、というのは」
「安全上の欠陥です」
西岡は山下を見た。
「つまり、事故のリスクが上がる、ということか」
「可能性として、はい」
会議室が静かになった。
役員たちが視線を交わした。
西岡は手元の資料を閉じた。
「山下くん、少し席を外してくれないか」
山下は立ち上がった。
廊下に出た。ドアが閉まった。
向こう側で、声がしている。何を話しているのか、聞こえない。
山下は廊下の壁にもたれた。
自分が言ったことは正しい。数字がそう言っている。でも今、あの部屋で数字以外の何かが話し合われている。
十分後、ドアが開いた。
川島が出てきた。
「山下」
「はい」
「会社として、海外事業部の方針に応じる方向で検討する、ということになった」
山下は川島を見た。
「期限は」
「十八ヶ月で、対応できる範囲で対応する」
「対応できる範囲で」
「そういう表現になった」
山下は息を吸った。
対応できる範囲で、というのは——全部はやらない、ということだ。でも全部やらないことを、全部やったように見せる、ということでもある。
「川島部長」山下は言った。
「なんだ」
「対応できない範囲の安全確認は、誰がやるんですか」
川島は答えなかった。
廊下に、二人の沈黙が残った。
*
その夜、山下は設計室に戻った。
誰もいない。図面が積んである。
引き出しから、先週しまった数字を取り出した。米国の基準と自分たちの基準の差。
もう一度、最初から計算した。
変わらなかった。数字は正直だ。どう計算しても、同じ答えが出る。
山下は計算用紙を見た。
この紙に書かれていることを、誰かに伝えなければならない。会社の上には伝えた。聞いてもらえなかったわけではない。でも別の論理が上回った。
では誰に伝えるのか。
規制当局がある。でも規制する側にも立場がある。産業政策もあれば、業界全体の事情もある。
山下は窓の外を見た。
工場の明かりが見える。あの工場で、今夜も人間が働いている。原発の部品を作っている人間たちだ。自分たちの仕事が何のためにあるか、信じて働いている。
その信頼に、応える責任がある。
山下は計算用紙を折りたたんで、胸ポケットにしまった。
明日、もう一度、坂本に連絡を取る。
技術の話として聞いてもらえなくても、言い続ける。
それ以外に、自分にできることがない。
*
三月、山下は再び東京に来た。
今度は一人だった。川島部長には言わなかった。会社の決定に逆らうつもりはない。でも言うべきことを、言える場所で言う。
坂本の執務室を訪ねた。
アポイントは一週間前に取っていた。坂本は少し驚いた顔をした。
「会社とは別に、ということですか」
「私個人の立場で、技術的な懸念をお伝えしたい」山下は言った。「会社の決定を覆すつもりはありません。ただ、記録に残しておきたい」
「記録に」
「十年後、二十年後に何かあったとき、今日この懸念が伝えられていたという事実を、残しておきたい」
坂本は山下を見た。
長い沈黙があった。
「分かりました」坂本は言った。「話してください」
山下は資料を広げた。
数字を、もう一度説明した。坂本は今度は、メモを取った。
一時間、話した。
最後に坂本が言った。
「山下さん、あなたはなぜそこまでするんですか」
山下は少し考えた。
「原発は、間違えたら取り返しがつかないから」
「それだけですか」
「それだけです」山下は言った。「それで十分だと思っています」
坂本は頷いた。
何も約束しなかった。でも頷いた。
山下は頭を下げて、執務室を出た。
霞が関の廊下を歩きながら、山下は思った。
これで変わるとは思っていない。でも言った。言い続ける。
それだけが、自分にできることだった。
完




