第320話 竜のカン、父の嫉妬
カツカレーパーティも、そろそろお開きに近づいていた。
フォルティア荒野、カクカクシティ中央広場。
さっきまで賑やかだった広場には、まだ食後の余韻みたいな笑い声が残っている。
高校生たちは思い思いに皿を抱えて談笑し、巨大フェンリルたちは満足そうに腹ばいになったり、まだ何かもらえないかと鼻をひくつかせたりしていた。
その中央で、アルドとブリジットは笑顔で大鍋の片付けをしていた。
「こっちの鍋、もう空っぽだね」
「ほんとだ。思った以上に大盛況だったなぁ」
そんな二人の様子を、少し離れたテーブルからリュナはじっと眺めていた。
目の前には、飲みかけのアイスティー。
氷がグラスの中で小さく音を立てる。
向かいの席にはヴァレンが座っていた。いつものように涼しい顔をして、けれど目だけは何かを探るように細めている。
しばらく二人は、黙ってアルドとブリジットを見ていた。
やがてヴァレンが、あえて軽い調子を崩さぬまま口を開く。
「──本当にいいのか?」
リュナは視線だけ向けた。
「何が」
「二人に『“統覇戦”の裏で何か企んでるヤツらがいるかもしれない』って相談しておかなくて、って話さ」
その言葉に、リュナはイーッと顔をしかめる。
わかりやすく嫌そうな顔だ。
「オメーもさっき見たっしょ? 姉さんには、余計な心配しないで本戦に集中してもらいたいんすよ」
その言い方には、ぶっきらぼうなようでいて、はっきりとした意志があった。
ヴァレンは肩をすくめる。
「せめて、相棒にだけでも言っといた方が良いんじゃねぇか?」
「兄さん、ああ見えてカン鋭いとこあるし」
リュナは頬杖をつき、ぶすっとした顔のまま言った。
「あーしらが言わなくても、何となく勘付いてるっしょ。たぶん」
ヴァレンは小さく笑う。
「確かにな」
それは、確かにそうだった。
アルドは基本のんきで適当で、妙なところで脱力しているくせに、いざという時だけ妙に鋭い。
全部説明しなくても、空気の変化や人の違和感を、なんとなく掴んでしまうところがある。
だからこそ、リュナの言い分も分からなくはなかった。
だがその時、ヴァレンはふと違和感に気づいた。
リュナが持っているアイスティーのグラス。
その表面に、かすかに細かな波紋が立っている。
最初は風のせいかと思った。
けれど、違う。
グラスを持つリュナの指先が、微かに震えていた。
ヴァレンは一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつもの調子へ戻して、わざと軽口みたいに言った。
「おいおい、どうしたリュナ? 相棒とブリジットさんの晴れ舞台に、お前がそんなに緊張してどうすんだ?」
リュナはぴくっと肩を揺らした。
「……は? 緊張なんかしてねーし」
そう言いながらグラスを持ち直す。
けれど震えは完全には止まらない。
自分でも気づいたのか、リュナは舌打ちしそうな顔でグラスをテーブルへ置いた。
「うっせ!」
反射的に噛みつくような言い方だった。
でも、いつもみたいな勢いが少し足りない。
ヴァレンはそれ以上すぐには追及しなかった。
ただ黙って待つ。
リュナはしばらく何も言わず、テーブルの上の水滴を指先でいじっていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「──竜としてのカン、ってヤツ?」
その声は、いつもよりだいぶ低かった。
「ちょっと前から……なーんか、イヤな予感みてーのが止まらないんすよね」
ヴァレンは表情を動かさない。
リュナは眉をしかめたまま続けた。
「妙なプレッシャーを感じるっつーか……」
そこで一度、言葉を切る。
それから、少しだけ迷うように目を伏せて、言った。
「まるで──初対面の時、兄さんを怒らせちった時のあの感じみてーな……」
その一言で、ヴァレンの内心が一気に冷えた。
(……あのリュナが、怯えてる?)
リュナは咆哮竜ザグリュナだ。
今は人の姿で軽口を叩き、ギャルっぽく振る舞っていても、その本質は、大罪魔王に匹敵する力を有する歴とした超越種。
そんな彼女が、本能的なレベルで“イヤな予感”を覚えている。
それも、比較対象が“アルドを怒らせた時”だという。
(相棒を怒らせた時みたいなプレッシャー、だと?)
ヴァレンは内心でじわりと嫌な汗をかいた。
(おいおい……明日の本戦、何が起こるってんだ?)
だが、その焦りを表に出すほど彼は素直ではない。
「へぇ……」
とだけ軽く相槌を打ち、テーブルに肘をつく。
「そいつは、なかなか笑えねぇ胸騒ぎだな」
「笑えねーっすよ」
リュナは珍しく即答した。
「兄さんがあの感じになる時って、大体ロクでもない事になってるし」
その言葉は、ヴァレンにとっても十分すぎるほど重かった。
アルドが本気で怒る時。
普段ののんびりした空気が全部消えて、あの静かな圧が周囲を制圧する。
ヴァレン自身にも覚えがあった。
あれを正面から受けたことのある者にしか分からない、逃れられない"死"を前にしたかの様な恐怖。
笑い話で済むはずがない。
ヴァレンはアイスティーのグラスを手元でくるりと回しながら、西の空をちらりと見た。
フォルティア荒野の向こう、さらに遠く。
その方角へ意識を向けながら、内心でひとつ決断する。
(こりゃあ、念のため“保険”もかけておいた方が良さそうだな)
小さく息を吐く。
(デカい出費になりそうだが……まあ、ケチって済む話でもないか)
リュナはそんなヴァレンの横顔を見て、少しだけ眉をひそめた。
「……何考えてるんだし」
「ククク……いや、別に?」
ヴァレンはいつものように笑う。
「若者たちの青春を守るためには、大人も色々大変だなぁって思ってただけさ」
「相変わらずっすね、オメーは」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
リュナは呆れたように鼻を鳴らしたが、そのあと少しだけ視線を緩めて、広場の中央を見た。
鍋を洗うアルド。
その隣で皿を拭いているブリジット。
時々言葉を交わして、二人とも自然に笑っている。
それを見て、リュナは小さく呟いた。
「……ま、いいっすよ。せめて今夜くらいは、あの二人には普通に笑っててほしいし」
その言葉に、ヴァレンは何も返さなかった。
ただ、ほんの少しだけ優しい顔をした。
◇◆◇
その夜、ルセリア貴族街。
石畳を照らす街灯の光の中を、ノエリア公爵家の馬車が滑るように進んでいく。
やがて豪奢な門の前で止まると、扉が開き、セドリック・ノエリアが降り立った。
彼は普段よりも明らかに足早だった。
表情も固い。
迷いより先に、決めてきた人間の顔だ。
門をくぐって屋敷の敷地へ入り、正面玄関を開く。
中で待機していた使用人たちが、その姿に目を丸くした。
「せ、セドリック様? 今日、お帰りになられるとは……」
「申し訳ありません、夕餉の準備が、まだ……」
だがセドリックは彼らを見もせず、視線だけを向けて言った。
「構わん。確認事項があって戻っただけだ」
そのまま、一直線に奥の廊下へ向かう。
行き先は、父グレゴールの書斎だ。
使用人たちも、ようやく何かがおかしいと察したらしい。
慌ててその後を追いかける。
「お待ちください、セドリック様! グレゴール様は、外出されておりますが……」
セドリックの足が、ほんのわずかにだけ止まった。
嘘をつくのは、本来の彼の気質ではない。
だが今は、それを気にしている場合でもなかった。
「……父の言いつけだ」
振り返らずに言う。
「明日の“統覇戦”に関する書類を持ってくるよう頼まれた」
それっぽい理由ではある。
使用人たちは一瞬戸惑ったが、当主の名を出されては強く出られない。
「は、はあ……そうでしたか」
納得した様子の声を背に、セドリックは書斎へ入る。
そして扉を閉め、内側から鍵をかけた。
カチャリ、という音がやけに大きく響く。
そこでようやく、彼はひとつ深呼吸した。
(──この私が、嘘をついてまで父の書斎に無断侵入するなどという無茶をするとはな……)
わずかに口元が緩む。
(私も、ブリジットの無茶っぷりに毒されてきたという事か)
妹を思い出して、小さく笑う。
けれど、その表情はすぐに引き締まった。
書斎の中は、静まり返っていた。
重厚な机。
壁一面の本棚。
高価な調度品。
そして、その奥。
巨大な金庫扉が、壁へ埋め込まれるようにして設置されている。
ダイヤル式のロック。
番号は、父しか知らない。
だが、セドリックは迷わずその前へ立った。
(ダイヤルの番号は、父しか知らない。だが──)
右手をかざす。
「"戦輪ノ騎士"──"回転"よ、あるべき位置へと戻れ」
低く呟くと、金庫のダイヤルがひとりでに動き始めた。
カチ、カチ、カチ、と乾いた音を立てながら、数字がゆっくりと揃っていく。
そして最後の位置で、ガチャリと重い解錠音が鳴った。
セドリックは静かに扉を開け、その中へ身を滑り込ませる。
そこにあったのは、予想以上に大量の書類だった。
借用書。
事業投資の記録。
王都西側の防衛関連資料。
ノエリア家の財務状況を示す決算書。
セドリックは一枚一枚を捲りながら、次第に表情を険しくしていく。
(──やはりか)
ノエリア家の台所事情が楽ではないだろうことは、以前から薄々察していた。
だが、その実態は彼の想像をさらに上回っていた。
(いや、これは思っていた以上に……)
負債は重い。
だが単なる浪費や失策ではない。
問題は、その金の流れ方だ。
セドリックは次々と資料を読み進める。
そこから見えてきたのは、父グレゴールが少し前から、西側の魔導帝国ベルゼリアと、魔王領スレヴェルドの間に不穏な動きがあると察知していたという事実だった。
さらに、その動きに備えるため、エルディナ王国西側防衛事業へノエリア家が多額の投資を行っていたこと。
そして、万が一、ベルゼリアかスレヴェルドが侵攻を始めた場合、その兆候をいち早く掴むための観測拠点として、両国の間に位置するフォルティア荒野を重要視していたこと。
ブリジットがフォルティアへ送られた理由。
それは“開拓”という名目だけではなかった。
父は、フォルティアを国境防衛の前線拠点として見ていたのだ。
さらに読み進めたセドリックの眉が、ぴくりと動く。
そこには、ブリジットの活躍によってベルゼリアとの戦争が回避された結果、ノエリア家が多額の損失を被ったことが、はっきり記されていた。
戦争が回避された。
本来なら、喜ぶべきことだ。
だが、それは同時に、父が見込んでいた防衛事業の価値と、そこから得られるはずだった政治的利益を失わせる結果でもあった。
セドリックの唇が、ぎり、と結ばれる。
「バカな……ッ!?」
思わず声が漏れた。
「父上……貴方は……戦争を望んでいたと言うのか……ノエリア家の繁栄などの為に……ッ!!」
それは、ただの防衛ではなかったのか。
いや、表向きはそうだったのだろう。
だが、その裏には明確な打算があった。
“もし戦争が起これば、ノエリア家はエルディナの守護者として絶対の地位を築ける”
そう踏んでいたのだ。
セドリックはさらに机の上へ散らばる別の紙束へ目を向けた。
急いで書き殴られたような、乱れた筆跡。
整った公文書ではない。
父グレゴール本人のものらしい私的なメモだった。
そこには、理屈と妄執が入り混じった言葉が並んでいた。
『全てはノエリア家の為であった』
『我が判断は正しい』
『戦が起これば、ノエリア家は絶対の栄誉を得られた』
『私が築くべき地位であった』
『なぜ、私ではなく娘が称賛される』
『私が得るはずだった栄誉を、何故ブリジットが受ける?』
『せめて、娘が手にした新たな力、あれを私のものに──』
そこまで読んだところで、セドリックは紙を持つ手に力を込めた。
信じたくない。
信じたくないが、目の前にある文字はあまりにも鮮明だ。
「父上……貴方は……」
声が震える。
「自分の娘に……“嫉妬”しているとでも、言うのですか……ッ!」
その一言は、重たく書斎の空気へ沈んだ。
グレゴールは、ただ家を守りたかったのかもしれない。
家門の繁栄を願うこと自体は、貴族として不自然ではない。
だが、その願いはどこかで歪み、自分の娘が得た成果さえも、自分から奪われた栄誉のように感じるところまで落ちてしまっていた。
それは、あまりにも醜く、あまりにも哀れな、父の姿だった。
セドリックはしばらくその場で立ち尽くしていた。
やがて、深く、長く息を吐く。
怒りだけではない。
悲しみもある。
だが、それ以上に今必要なのは、感情に呑まれることではないと分かっていた。
彼は静かに顔を上げる。
眼差しに、もう迷いはなかった。
「──ノエリア家を……皆を守るには、私も腹を括る必要がある様だな」
ぽつりと呟く。
それは、自分自身へ向けた宣言でもあった。
父の暴走も。
家の歪みも。
そのしわ寄せがブリジットへ行くことも。
全部、もう見て見ぬふりはできない。
そして何より。
ここまで来た妹に、これ以上ひとりで背負わせるわけにはいかなかった。
「すまない、ブリジット」
セドリックは、まるでそこに妹がいるかのように小さく言う。
「明日の本戦……私も本気で、優勝を取りにいく」
その決意は、妹を止めるためのものではない。
妹ごと、家ごと守るための覚悟だった。
書斎の窓の外では、夜の貴族街が静かに広がっている。
だが、その静けさの裏で、いくつもの思惑が確かに動いていた。
本戦前夜。
誰もがそれぞれの場所で、見えない何かへ備え始めていた。




