第4話「不安を言葉にする勇気のない私は」
「今日の夜は、カレットちゃんにとって大事な日だもの」
体全体に、少しずつ少しずつ栄養分が巡り始めていく。
イリットさんの言葉を聞いて、ようやく混乱した頭が物事を整理するための活動を始めていく。
「……それで、お休みですか?」
「ふふっ、今日は無理禁止よ」
私が焼きたてのパンを手に持ったのを確認すると、イリットさんは手をつけていた編み物を再開する。
「私、食べ終わったら事務所に行ってきます」
私が食べ物を運ぶたび、イリットさんは穏やかに優しく笑ってくれる。
私が小鳥だった頃、魔女様が見せてくれた笑みも、確かこんな風に心を温かくさせるものだった。
(見るだけで、傍にいてくれるだけで、安心できる笑顔……)
イリットさんは紛れもなく、私のもう一人の育て親だなって実感が生まれる。
その実感が生まれると、口にしている料理の数々はもっと旨味を増していく。
「今日も、ご飯がとても美味しいです」
「ありがとう、カレットちゃん」
人間の体を得たばかりの頃は、人間として食事を摂ること自体を戸惑った。
でも、人間の体に馴染みを覚えた私は、焼き立てのパンにバターの塗るという幸福に笑みを浮かべられるようになった。
(戦争中は、食べ物の味を気にする余裕すらなかった……)
咀嚼するたびに、口の中に幸福な旨味が広がっていく。
(でも、今は美味しいと感じる物を口にできている……)
心の底から美味しいと感じられるだけで、感情が揺すられて泣きそうになってしまう。
(この幸福が、あと何回続きますか)
大好きな人と一緒に過ごす大切な時間は、あと何回積み重ねることができますか。
そう尋ねたところで、答えをくれる人は現れない。
だからこそ、一瞬一瞬を大切に生きていきたいと思う。
「ごちそうさまでした」
「お腹は膨れた?」
「今なら、なんでもできちゃいそうです」
私が異世界転移してきた世界では、精霊術と呼ばれる術が栄えていた。
名が示す通り、精霊の力を借りることで人々は生活を豊かにすることができている。
元白い小鳥だった私が過ごした世界では魔法と呼ばれる力が使われていたけれど、魔女様が転移先に選んだ世界に魔法と呼ばれる術は存在しなかった。
「今年こそ、水精霊と契約を交わしてみせます」
私が転移させてもらった世界で主流となっている力は精霊術で、その力を扱う人を精霊使いと呼んでいる。
精霊使いが精霊と契約を交わすには、一年に一度の儀式を成功させる必要がある。
契約の儀式が行われる日の名前を、『ミスティル・ウェイ』。
ミスティル・ウェイは年に一度訪れ、人間は今度の人生を一緒に歩んでいってほしいと精霊に交渉することができる。
「親方の役に立つことが、人間になった私の夢ですから」
精霊が、自分と共に生きてくれるかどうか。
精霊が、自分に力を貸してくれるかどうか。
人間界を訪れた精霊と、精霊の力を必要としている人間は話し合いをする。
この決まりは大昔の文献によると、人間王と精霊の王が取り決めた約束ということらしい。
精霊界の秩序と平和を乱さないための約束、だと。
「イリットさん、いってきま……」
「カ~レッ~ト~……」
リビングと廊下を繋ぐ扉に手をかけた、その瞬間。
聞き慣れない重低音が、扉の向こう側から私の名前を読んだ。
「私を置いていくつもり?」
まるで異界の生物が私を暗黒の世界へと誘うように、ゆっくりとゆっくりと時間をかけて扉が開いていく。
「その声は、ピア……ですよね?」
「さっきまで、私がどこにいたと思う?」
扉はゆっくりとしたペースで開くはずだったのに、ドアは破壊するかような勢いで開いた。
そこで待っていたのは異界の生物でもなんでもなく、私のことを起こしにきてくれた黒猫の彼女が不機嫌そうな顔を浮かべて私を待ちかねていた。
「……え、どうして廊下にいた……」
「カレットが扉を閉めたでしょ!」
私が憧れてやまない美しい黒色の毛並みの彼女は、廊下を指差して私に置いて行かれたことをアピールする。
私を眠りの世界から現実に引き戻してくれた彼女は、かなりご立腹な様子で私のことを出迎える。
「ごめんなさい!」
ピアに向かって心を込めて謝罪をするものの、彼女を怒らせた原因は間違いなく自分にある。
ただ単純に謝っただけでは、彼女の怒りは消えない。
そんな簡単に済む相手だとは、もちろん私も思ってはいない。
「カレット! さっさと支度」
「はいっ! イリットさん、事務所まで行ってきますね」
「気をつけてね」
私はピアに引っ張られるかのように、リビングから連れ去られていく。
いくらピアが黒猫の姿をしていたって、ピアは精霊と呼ばれている存在。
人間にとって未知なる力を所持していると同時に、腕力の数値も人間の私以上。
人一人運ぶくらい、ピアにとっては朝飯前ということ。
「そろそろ自力で歩きなさい」
夏の熱気ではなく、秋の柔らかな太陽光が石畳の道を照らしていく。
木々の葉が金色に輝いて見えて、その上を歩くたびに楽しいって感情を心と体が覚えていく。
道の両側には古びた木造の家々が並んで、秋に彩りを見せる花々が街を訪れる人たちを出迎えてくれる。
「運んでくれて、ありがとうございました……」
戦争から逃れるために異世界転移をしてきた私は、水属性を司る精霊と契約を交わした精霊使いで形成された『水の専門職社』という会社でお世話になっている。
専門職社に勤めるためには、精霊と契約して精霊使いであることが必須条件。
「カレットに忘れ去られる日が来るなんて、泣いちゃう」
「イリットさんと二人きりの時間を作ってくれた……とかはないですか?」
「都合いい解釈をするカレットが、私は大好きよ」
ピアは黒猫なりに口角を上げているけれど、その笑みにはいろんな感情が含まれている気がして目を合わすことすらできない。
「今日がミスティル・ウェイだと思うと、心臓が痛いんです……」
「だから、何が起きても許せって?」
「そうは言ってませんけど……」
白い小鳥だった頃の時間よりも、人としてピアと過ごしてきた時間の方がダントツに長い。
積み上げてきた時間の分だけピアと仲良くなれたかと思いきや、ピアのご機嫌はなかなか回復してくれない。
「カレットは、未だに精霊と契約ができていないものね」
「うっ……どうせ、私は落ちこぼれですよ」
私は自分で称した通り、十年連続で精霊との契約に失敗している落ちこぼれ。
精霊使いでなくても雑用という形で雇ってもらってはいるけれど、専門職社の職人として働くには精霊との契約が必須となってくる。
「でも、新しい精霊にばっか気を取られるなんて焼いちゃうわ」
「どっちも大切です!」
才能がないから、精霊と契約ができないのか。
相性が悪いから、精霊と契約ができないのか。
いろいろ考えた。
「私には、ピアも、新しく出会う精霊さんも、どちらも大切です!」
でも、毎年思うことがある。
私が、人間でないことに原因があるのかもしれないって。
精霊が契約したいのは人間であって、精霊は元小鳥の私となんて契約したくないのかもしれない。




