第9話「空の青」
「シスカさん、タチールさんは水精霊の医師でもあるんです」
タチールさんのことを紹介して、シスカさんの警戒心を解くことができたらと思った。
けれど、なかなか警戒心を解くことができないシスカさんの気持ちも理解できる。
「でも、無理はしないでくださいね!」
私も、新しい世界に転移してきたばかりの頃は何と出会っても警戒をしていたと思う。
初めての世界を生きるって、そういうことだと私はよく分かっている。
「赤の他人に、大切な精霊を預けたくないという気持ちは尊重すべきですから」
タチールさんは、シスカさんを気遣うように優しい声を届ける。
タチールさんのような精霊専門の医師の力は強大で、精霊専門の医師はあっという間に精霊を元気にしてしまう力を持つ。だからと言って、シスカさんに無理強いはできない。
「…………」
シスカさんはシャロットさんが眠っている精霊石をじっと見つめたあと、タチールさんの瞳と真っすぐ向き合った。
「……お願いします」
「では、お預かりしますね」
シスカさんが何を思ったかはシスカさんにしか分からないけれど、シスカさんは警戒心がほんの少しでも解けたのならそれでいい。
警戒していますってことが丸わかりのゆっくりとした動作ではあったけれど、最終的にシスカさんはタチールさんに自分の精霊石を手渡そうと手を差し出す。
「シスカさ……」
私がシスカさんの名前を呟いたその瞬間、既にタチールさんに預けようとした金色の精霊石が一際強い輝きを見せた。
「っ、何」
あまりの眩しさに一瞬目を伏せるけれど、次に目を開いたときには光は止んでいた。
目を開けていられなかった程の光を放っていたとは思えない、いつもの見慣れた客室が私の視界に入るはず。
「え」
だけど、光を放つ前とは少し違う環境が目の前に広がっていた。
(少し違う……違う……違う……)
少し違うどころの話じゃない。
(ここは……ここは……)
大歓声を浴びる。
どうして、私が大歓声を浴びているのか。
どうして、私は大歓声を浴びることになってしまったのか。
「闘技場……?」
実際に訪れたことはないけれど、写真を通して見たことがある。
大勢の人たちが楕円形の闘技場に集まって、競技や狩りや賭け事などの様々な催しを行う場所だってことくらい知識として知っている。そんな自分とは縁もゆかりもない闘技場の中央でしゃがみ込んで、私は耳が割れんばかりの歓声を受けていた。
「闘技場!」
大きな声で叫んだ。
こんなにも大きな声を出せるんだってくらい叫んだ。
でも、そんな叫び声がかき消されてしまうくらい闘技場は活気で溢れていた。
「…………」
私が、いる場所。
私がいる場所は、闘技場。
それは分かるけれど、私の立ち位置が問題だった。
「っ」
私がいるのは、闘技場のど真ん中。
どう考えても、どう考えなくても、私は闘技場の真ん中で催し物を楽しんでいる皆様の邪魔をしているという状況に立たされていた。
「っ」
勢いよく一体の大きな獣が、まるで私を目標にしているかのように向かってくる。
この獣の名前はなんだったか。
知識はあるような気がするけれど、何も考えが回らない。
回避する方法とか、獣をなんとかする方法とか、今日まで様々な知識を頭に詰め込んできたはずなのに。
精霊使いとして生きていくための知恵を、たくさんたくさん吸収してきたつもりなのに、いざとなると何も役に立たないことに愕然とする。
「っ!」
頭を守ったところで、意味はない。
そうは思ったけれど、私は咄嗟に両手で自分の頭を覆った。
何が起きてもいいように、目を閉じて時が過ぎるのを待った。
「死にたくないなら、全力で逃げなさいっ!」
「ピア!」
私は、また助けてもらった。
精霊は浮遊することができるため、私はピアに持ち上げられる形で窮地を脱した。
けれど、私に襲いかかろうとした獣は目標としていた獲物が突如消えてしまったことに気づかなかったらしい。
獣は真っすぐ闘技場の壁へと突進し、壁にぶつかると同時に大きな地震のような揺れが闘技場を襲った。
「闘技場にいる方が怪我を……!」
「こういうところは、観客に被害が出ないように対策済みなの」
闘技場を守っているのは、恐らく精霊。
世間的な事情を知らずに慌てる私に対して、世界に溶け込んでいるピアは冷静に闘技場へと視線を向けている。
「そう……なんですね」
「この世界は、人間と精霊が共存してるからな」
親方と一緒に人生を歩んできたピアには、たくさんの知識と経験がある。
それを羨ましいとは思うけど、知らないことを教えてくれるひとが傍にいることのありがたさを同時に感じる。
「いつも助けてもらえると思わないこと」
「はい……」
「まったく……」
「……ありがとうございました」
いつも、ピアが助けてくれるとは思っていない。
でも、闘技場で行われている試合を私が妨害したことに変わりはない。
騒動を起こすきっかけとなった私は、自身の行動を顧みる。
「怪我はない?」
小鳥だった頃は、空を飛ばないまま小鳥の人生を終えた。
ピアに体を持ち上げられたことで、私は初めて空中から地上を見下ろすことができた。
「カレット?」
「あ……」
空が、青い。
昼間の空が青いことなんて知っているはずなのに、視界いっぱいに広がる蒼の深さに驚かされた。
「……飛んでるなって思って」
言葉にしたいことは山のようにあるはずなのに、こんな単純な言葉しか思いつかない自分が恥ずかしい。
初めて見る闘技場の風景が徐々に小さくなり、私は澄み渡る空の広がりに包まれる。
「建物も、人も、本当に小さく見えるんですね」
視界いっぱいが空の青さで染まり、この青が永遠に続くのではないかと脳が錯覚を始める。
私の視界に映るのは、青の美しさ。
地上では見ることのできない光景が、私とピアを飲み込んでいく。




