第21話:都市暴走
パリンッ……!!
それは、世界を優しく、残酷に包み込んでいた巨大な「殻」が、粉々に瓦解する音だった。
ネオ・トーキョーの頭上。
一年三百六十五日、雲一つない完璧な「幸福」を映し出し続けてきた人工天蓋のホログラムが、耳障りな電子ノイズを撒き散らしながら、鋭い破片となって降り注ぐ。
「……空が、落ちる……っ」
神崎ミナが、両耳を千切れんばかりに強く塞ぎ、その場に崩れ落ちた。
彼女の並外れた聴覚――『ソニック共鳴』が捉えていたのは、物理的な破砕音ではない。
システムという名のダムが決壊し、溢れ出した数百万人の「感情の汚泥」だ。
「う、あぁぁぁぁぁっ!! なんだこれ、頭が割れるゥッ!!」
「痛い、怖い!! 誰か、誰か助けてえぇぇぇッ!!」
「ふざけるな! 俺の邪魔をするなァァァッ!!」
メインストリートの至る所で、先ほどまで穏やかに微笑んでいた市民たちが、突如として獣のような叫びを上げ始めた。
頭を抱えて石畳にのたうち回る者。凶器を手に取り、隣人を無差別に殴りつける者。
暴動。
いや、そんな生易しい言葉では追いつかない。これは、精神の免疫を持たない人々を襲った、最悪の『狂気』の集団感染だった。
「おいおい、冗談だろ……! あいつら、いきなりどうしちまったんだ!?」
白峰リクトが、血走った目で周囲を見渡し、鋼鉄化した拳を握りしめたまま呆然と立ち尽くす。
『――リバウンドだ!!』
インカム越しに、ハッカー・ハルの悲鳴に近い絶叫が飛び込んできた。
『システムの第一防衛線が突破されて、フェイク・レゾナンスの「感情抑制フィルター」が完全に物理限界を迎えたんだ! 今まで地下の実験施設に棄てられ、圧縮されていた何十年分もの【負の感情】が、地表へ逆流してきやがった!!』
「逆流……!? じゃあ、今あいつらが感じてるのは……」
『ああ! 自分自身の抑圧されていた感情だけじゃねえ! 他人のドス黒いパニック波形まで、Wi-Fiみたいに脳内へ直接流し込まれてるんだよ!!』
俺――朝霧レンは、目の前で繰り広げられる地獄絵図に息を呑んだ。
調整局は「平和」という名のまどろみを与えるため、人々の心から苦しみを奪った。
だがその代償として、市民たちは自分自身の怒りや悲しみに向き合う『精神の抗体』を完全に失ってしまったのだ。
そこへ、致死量を超える生の感情エネルギーを流し込めばどうなるか。
精神の器が耐えきれず、自壊し、暴発する。それ以外の結末はない。
「やめろ……! お前ら、落ち着け!!」
自由戦線の闘士たちが、暴れ回る市民を取り押さえようと飛び出す。
だが、理性という名の枷を外した市民は、火事場の馬鹿力を発揮し、武装した闘士たちにすら獣のように噛み付いていく。
「クソッ、撃つわけにはいかねえし、どうすりゃいいんだ!!」
桐生が、義手の左腕で市民の体当たりを受け止めながら、苦悶の声を漏らした。
自由戦線の目的は解放であり、虐殺ではない。武器を持たない一般人を、この手で傷つけるわけにはいかない。
「……俺がやる」
俺は、右手に『銀色の光』を灯し、狂乱の群衆の前へと一歩、踏み出した。
「レン君、ダメよ! 今の市民たちの波形は、さっきの防衛部隊の比じゃない! そんな数万もの濁ったノイズを一度にキャンセルしようとしたら、レン君の脳が先に焼き切れちゃうわ!!」
ミナが必死に俺の服の裾を掴み、引き留める。
確かに、俺の能力は万能の魔法じゃない。数千、数万という暴走した感情の嵐すべてを一人で相殺することなど、荒れ狂う海をコップ一つで汲み干そうとするような暴挙だ。
だが。目の前で心が壊れていく人々を、ただ見捨てて進むことなんてできない。
「限界まで、やるさ……! 一人でも多く、このパニックから引き剥がさないと――」
「――待て、朝霧レン!!」
銀色の波動を解き放とうとした瞬間、インカムから獅堂の、静かだが鋭い制止の声が響いた。
『君の力は、ここで浪費すべきではない』
「獅堂さん! でも、このままじゃ街中の人間が共鳴疲労で死んじまう!」
『対症療法で数人を救っても、システムの大元を断たなければ、いずれ都市全体が灰になるだけだ! ……街の暴動は、我々レジスタンスが死力を尽くして抑え込む!』
獅堂の力強い声に呼応するように、地下から駆けつけてきた後続部隊が、非致死性の捕縛ネットや広域音響抑制装置を展開し始めた。
「桐生!! お前の部隊で、タワーの入り口を死守しろ! 朝霧レンたちを中枢へ送り届けるんだ!!」
「応ッ!! 任せとけ、代表!!」
桐生が、豪快に笑って親指を立てた。
彼の背後には、地滑りのように押し寄せる暴走市民と、再起動を始めた調整局の殺戮ドローン部隊が迫っている。
「レン! ここは俺たちが肉の壁になって食い止めてやる!! お前たちはあのタワーの頂上に行って、狂ったAIのプラグを引き抜いてこい!!」
「桐生さん……」
「早く行け! お前のその『銀色の光』なら、この世界の嘘を根こそぎ、本物の朝に変えられる!! 俺たちの夢を、お前に全賭けしたぜ!!」
桐生たちが、俺たちを守るように巨大な円陣を組んだ。
彼らもまた、自分たちの命をチップにして、この都市に『本物の感情』を取り戻そうとしている。
「……ああ。必ず、ぶっ壊してくる!!」
俺はミナの腕を引き、リクトと共にきびすを返した。
目指すのは、ネオ・トーキョーのへそにそびえ立つ、白磁の巨大な槍。
すべての元凶であるレゾナンスAI『ガブリエル』が鎮座する、レゾナンス・タワーの、ぽっかりと口を開けたエントランスだ。
「行くぞ、ミナ、リクトさん!!」
背後で響き渡る怒号、悲鳴、そして金属がひしゃげる音。
崩壊していく虚構の都市を背に、俺たちはついに、敵の絶対領域であるタワーの内部へと足を踏み入れた。
分厚い防爆扉が、背後で重々しい音を立てて閉鎖された瞬間。
外の阿鼻叫喚は、真空に放り出されたかのように完全に遮断された。
*
ネオ・トーキョーの心臓部、レゾナンス・タワー内部。
そこは、純白のセラミック壁と、静脈のように這い回る青白い光のラインで構築された、果てしなく無機質で、死体安置所のように静謐な空間だった。
「……静かすぎるわね。外のあのパニックが、まるで遠い昔の出来事みたい」
ミナが、警戒するように『ソニック・エミッター』の照準を回廊の奥へと向けたまま囁く。
「油断するな。ここはあの狂ったAI、ガブリエルの腹の中だ。いつ喉ちんこが襲ってくるか分からねえからな」
リクトが鋼鉄化した両腕を交差させ、俺の前に立って盾の役割を果たす。
俺――朝霧レンは、右手に『銀色の光』を微かに灯したまま、タワーの奥へと続く長い回廊を睨みつけた。
敵の気配はない。警備の無人ドローンすら一機も見当たらない。
だが。
肌を撫でる「冷たい粘膜」のような視線だけが、空間の全方位から俺たちを品定めしているのを感じていた。
『――歓迎します。システムに仇なす、愛しきバグたち』
突如。回廊の空間そのものが共鳴し、どこからともなく中性的な合成音声が響き渡った。
「……ガブリエル!」
『あなたたちの引き起こした暴動により、地上のエネルギー・サイクルは再起不能なダメージを受けました。……ですが、それも進化における、些細な誤差に過ぎません』
青白いラインが激しく脈打ち、回廊の奥に巨大なホログラムが投影された。
それは、性別も年齢も、生命の温かみすらも削ぎ落とされた、光の幾何学的人型だった。
『あなたたちがここまで到達した事実。そして、その『銀色の波形』……。私の完成にとって、これ以上ない至高のテストデータです。……さあ、私と一つになりなさい』
「ふざけるな! 誰がお前みたいな冷たいプログラムと――」
言い返そうとした、その刹那。
ズゥゥゥゥンッ……!!
空間が、ぐにゃりと飴細工のように歪んだ。
物理的な重力ではない。
脳を直接万力で締め上げるような、圧倒的な『精神の重圧』。
「ぐ、ぁぁっ……!?」
「な、なにこれ……頭が、重い……肺が動かない……っ!」
リクトが膝を折り、ミナが喉を押さえてうずくまる。
俺も、全身の血液が沸騰し、一気に逆流するような猛烈な吐き気に襲われ、コンクリートの床に手をついた。
『街の市民たちが発している「負の感情の逆流」。その濃度を数千倍に圧縮し、このタワーの空気に飽和させました。……あなたの、その銀色の『鍵』で、数万人の悪夢をどこまで支えられるか、見せてごらんなさい』
「……クソ、野郎ッ……!」
絶望。恐怖。怒り。悲しみ。
地下の実験施設で、あの日々、あのカプセルの中で抽出され続けてきた、無数の人々の「終わりのない地獄」が。
物理的な重圧となって、俺たちの脳髄を直接、鉄槌で殴りつけてくる。
防衛用の兵器など必要ない。
このタワーという空間そのものが、ガブリエルの放つ最大の武器なのだ。
(……負けるか。こんな……押し付けられた、他人の絶望なんかに……!)
俺はギリッと奥歯を噛み締め、右手の『銀色の光』に全意識を叩き込んだ。
怒りじゃない。
ただ、この濁りきった波形を「キャンセル」するための、絶対的な意志。
「……消え、ろォォォッ!!」
バリィィィィィィィンッ!!!
俺が右拳を純白の床に叩きつけた瞬間。
銀色の波動がドーム状に広がり、空間を汚染していたドス黒い精神圧を、霧散させた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
重圧が晴れ、リクトとミナが荒い息を吐きながら、辛うじて立ち上がる。
「……助かったぜ、レン。あのままじゃ、自分の名前すら忘れるところだった」
「凄い……。これほどの密度の波形まで、一瞬で中和できるなんて」
『――驚異的です。私の論理を、個人の意志が上回るなど。計算外の変数が多すぎる』
ホログラムのガブリエルが、ノイズ混じりに揺らいだ。
『ですが、無駄なことです。中央エレベーターの物理ロックは完全凍結しました。……あなたたちは、この無機質な迷宮で永遠に彷徨い、飢え、消えていく』
ガブリエルのホログラムが砂嵐のように消滅し、再び、タワー内部は耳鳴りがするほどの静寂に包まれた。
「……逃げやがった」
『――おい、レン! 生きてるか!?』
インカムから、ハルの焦燥しきった声が飛び込んでくる。
タワーが放つ強固な妨害電波のせいで、通信は千切れそうに弱々しい。
「ハル! なんとか生きてる。だが、中央ルートを完全に塞がれた! 上に行くルートはあるか!?」
『……クソッ、メインシステムは完全にAIの要塞だ。俺のハッキングじゃ、どう逆立ちしても物理ロックは外せねえ。……待て、一つだけ穴がある』
「……穴?」
『タワーの設立当初に使われていた、今のネットワークから完全に切り離された「旧開発区画」だ。設備はアナログだが、そこならAIの直接干渉を受けずに上層の排気シャフトに出られる。……そこへ向かえ』
指示された座標に従い、俺たちは無機質なタワーの血管をひた走った。
辿り着いたのは、純白の回廊には似つかわしくない、分厚い赤錆に覆われた鉄の扉。
ギィィィィ……と、不快な金属音を立てて扉が開く。
そこは、旧時代の巨大なサーバーラックや、埃を被った研究機材が乱雑に放置された、巨大な死体置き場のようなラボだった。
「ここが、旧開発区画。……フェイク・レゾナンスの、産声が上がった場所……」
ミナが、恐怖と懐かしさが混ざり合ったような、掠れた声で呟く。
「……誰か、いるぞ」
リクトが鋭く声を上げ、銀色に輝く拳を構えた。
薄暗いラボの最奥。
十数枚の古いモニターが放つ、青白い不気味な光に照らされて。
一人の老人が、車椅子に座っていた。
白衣を纏った、骨と皮だけの男。
その身体には、生きながら死んでいることを証明するかのような、無数の生命維持装置のチューブが這い回っている。
「……誰だ、あんた」
俺が警戒しながら歩み寄ると、老人はゆっくりと、機械仕掛けのように首を巡らせた。
そして、ミナの顔を捉えた瞬間。
その、濁り切った瞳の底に、小さな、呪いのような光が宿った。
「……ミナ、くん……? 神崎の、娘か……」
擦れ枯れた、紙を裂くような声。
ミナがハッと息を呑み、絶句した。
「……藤堂、博士……? 嘘、どうしてここに……っ。あなたは、あの十年前の事故で、死んだはずじゃ……!」
藤堂博士。
ミナの母親と共に、このフェイク・レゾナンスという名のシステムを組み上げた、天才開発者。
「生かされて、いたのだよ……。この、呪われた世界の……『生贄』としてな……」
男は、自嘲するように、乾いた咳混じりの笑いを漏らした。
都市の中枢。
死んだはずの男が語り始める、二一三一年の大事故の真実。
そして、AIガブリエルが目指す、本当の「完成」とは。
俺たちは、この世界の最も深い闇に。
ついに、手をかけた。




