第五話:迷宮に響く鼓動
翡翠の迷宮の湿った空気が、ゼルの肌にまとわりつく。新しく仲間になったジンは、足音一つ立てずに原生林の先を読み、時折立ち止まっては風の匂いを嗅いでいた。
「……ゼル、この先に『カラー』の残した古い中継キャンプがある。そこなら少しは休めるはずだ」
ジンの言葉に、ゼルは短く頷いた。しかし、その足取りは重い。能力『感情の終着点』が、絶えず遠くから届く「色葉」の気配を拾い続けているからだ。彼女は今、この森のどこかにいる。そして、その感情はこれまでになく激しく、泥のように濁っていた。
「主様、顔色が優れませんね。……やはり、彼女のことですか」
アルテミスが隣に並び、ゼルの様子を窺う。彼女はゼルの側近として、その内心の揺れを誰よりも敏感に感じ取っていた。
「ああ。……あいつの感情が、泣いているように聞こえるんだ。俺たちを拒絶しているのか、それとも助けを呼んでいるのか……今の俺にはまだ判別できない」
ゼルは自分の掌を強く握りしめた。アルテミス戦で得た『感情の終着点』は、相手の向けた感情を力に変え、その正体を知ることができる。しかし、今の色葉から伝わってくるのは、自覚のない恋心や友情を塗りつぶすほどの、強烈な「喪失感」と「破壊衝動」だった。
「……待て。誰か来る」
スイが杖を構え、周囲の気温を急激に下げた。原生林の木々が白く凍りつき、静寂が広がる。前方、霧の向こうから現れたのは、カラーの実行部隊――人造の神の子たちの分隊だった。しかし、これまでの兵士とは異なり、その瞳には光がなく、洗脳の魔道具が不気味な紫色の光を放っている。
「排除……イレギュラー、天導ゼルの排除を確認……」
機械的な声と共に、兵士たちが一斉に魔法を放つ。炎と雷が入り混じった攻撃がゼルを襲うが、アルテミスが月光の盾を張り、スイが氷の壁でそれを補強した。
「ジン、右の狙撃手を頼む! スイは左だ!」
ゼルの指示を受け、ジンが姿を消す。ハイドの能力により完全に気配を絶ったジンが、死角から正確に兵士の急所を射抜いていく。
「……俺は、お前らを殺したくない!」
ゼルは得意の雷を纏い、超高速の踏み込みで敵の懐へ飛び込んだ。刀は抜かず、鞘のまま敵の腹部を強打し、意識だけを刈り取っていく。しかし、倒しても倒しても、奥から新たな兵士が湧き出してくる。
その時、ゼルの脳裏に鋭い痛みが走った。『感情の終着点』が、戦場にそぐわない、あまりにも巨大な「悲しみ」を至近距離で感知したのだ。
「……っ、この感覚……色葉か!?」
ゼルが叫んだ瞬間、原生林の一部が爆発するように吹き飛んだ。土煙の中から現れたのは、赤い髪をなびかせ、感情の消えた瞳でこちらを見つめる少女――紅月色葉だった。彼女の手に握られているのは、禍々しい魔力を帯びた漆黒の剣。
「……ゼル。邪魔、しないで」
色葉の声は、震えていた。洗脳に抗おうとする意志と、それを上書きしようとする組織の魔道具が、彼女の心の中でせめぎ合っている。
「色葉! 帰ろう、俺たちの場所に! お前の居場所は、まだ空けてあるんだ!」
ゼルの必死の叫びも、今の彼女には届かない。色葉が剣を振り下ろすと、大地を割るほどの衝撃波が放たれた。ゼルは反射的に炎の魔法を拳に集め、正面からそれを迎え撃つ。
衝突の衝撃で、周囲の木々がなぎ倒される。今のゼルには、まだ色葉を無理やり抑え込むような理外の重力操作はない。あるのは、泥臭くあがき、親友を連れ戻そうとする「人間」としての意志だけだった。
「主様! 彼女の出力は異常です。今のままでは……!」
アルテミスが助勢に入ろうとするが、色葉の放つ威圧感に行く手を阻まれる。色葉の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その瞬間、『感情の終着点』を通して、彼女の本当の願いがゼルの心に突き刺さる。
(……助けて。私を、壊して)
「……そんなこと、させるかよ!」
ゼルは魔力が枯渇するほどの雷を全身に駆け巡らせた。色葉との距離はあと数メートル。しかし、その時、色葉の首筋の刻印が赤く輝き、彼女の身体を強制的に空間の歪みの中へと引きずり込んでいった。
「待て! 色葉!!」
ゼルの伸ばした手は、虚しく空を切った。色葉の姿が消え、静寂が戻った原生林には、彼女が落とした小さなリボンだけが残されていた。
ゼルはその場に膝をつき、拳を地面に叩きつける。自分の無力さに歯噛みしながらも、彼は確信していた。色葉の心はまだ死んでいない。
「……次だ。次は、絶対に離さない」
立ち上がったゼルの背中を、スイとジン、そしてアルテミスが静かに見守る。理外の王としての完全な覚醒はまだ先だが、彼の心には、組織を壊滅させ、親友を取り戻すための不滅の炎が灯っていた。




