第二話:氷解の朝、不器用な食卓
天導スイがこの家に加わってから、丸一日が経った。 かつて「青の17号」として天界を凍らせた少女は、今、不慣れな手付きでキッチンの前に立っている。
「……ゼル、これで合ってる?」
エプロンをつけたスイが、ボウルに入った水を凝視しながら尋ねる。彼女はポセイドンのDNAの影響か、無意識に水の温度を氷点下ギリギリまで下げてしまう癖があり、先ほどからボウルの中には薄氷が張り続けていた。
「ああ。冷やしすぎなければ大丈夫だ。……というか、無理に家事をしなくてもいいんだぞ、スイ」
ソファで愛刀の調子を確かめていたゼルが顔を上げる。スイは少しだけ首を横に振った。
「居場所をくれたんだもん。役に立ちたい。それに……『名前』がある生活って、まだ不思議な感じだけど、悪くないから」
彼女に向けられた感情を、ゼルの**『感情の終着点』**が拾い上げる。そこにあるのは、凍てついた実験室にはなかった純粋な「安堵」と、少しの「緊張」。 かつて自分を突き放した組織『カラー』とは対極にある、ささやかな温かさだった。
「……そうか。なら、焦らずに慣れていけ」
その時、背後から凛とした気配が近づく。ゼルの側近として、そして盾として仕えることを誓った女神・アルテミスだ。彼女は一歩下がり、敬意を込めた所作でゼルに一礼した。
「ゼル、スイの言う通りです。貴方が守ったこの平穏を維持するためにも、彼女に役割を与えるのは悪いことではありません」
「アルテミス、家の中くらいそんなに畏まらなくていいって。お前はもう護衛じゃなくて、俺の協力者なんだから」
「いいえ。私は貴方の決意と、その魂の在り方に触れ、自らの意志でここにいます。主である貴方に敬意を払うのは、私自身の矜持なのです」
アルテミスの瞳には、迷いがない。かつて強引に連れ戻そうとした己を恥じ、今はその贖罪と共に、ゼルの歩む道を支えようという強い意志が宿っていた。
「アルテミス、お前もそんなに堅苦しいとスイが緊張するだろ。ほら、飯にするぞ」
ゼルがそう言ってキッチンに歩み寄ると、スイが困ったようにフライパンを見つめていた。
「……ゼル、これ、火が出ない。私のせいで凍ったのかも」 「いや、それは単にコンロの火を点けてないだけだ。貸してみろ。……『灯れ』」
ゼルが指先から小さな火花を散らし、魔力でコンロに火を灯す。得意魔法である炎の扱いは、戦場で見せる苛烈さとは打って変わり、繊細に熱を調整していく。
「わあ……温かい。天界の兵士たちが使っていた魔法とは、全然違う」 「あいつらの魔法は殺すためのもんだ。……これは、お前を温めるための火だ」
ゼルは少し照れくさそうに視線を逸らした。 そのやり取りを、アルテミスは静かに、そしてどこか誇らしげに見守っている。ゼウスとアマテラスの血を引き、『理外王』とまで呼ばれる強大な力を持ちながら、その力を誰かの朝食のために使う。その優しさこそが、彼女が仕えるに値すると確信したゼルの本質だった。
「ゼル、皿の用意は私が。スイ、貴女も無理をせず、まずは人間としての生活を享受しなさい。それが今の貴女の任務です」 「……うん。ありがとう、アルテミス」
一方、その頃。 世界のどこかにある『カラー』の作戦室では、冷徹な報告が響いていた。
「……青の17号、バイタル反応の完全な消失、および洗脳魔法の強制解除を確認」
「ふむ。黒の13号か。失敗作の分際で、我々の庭を荒らすとは」
影の中から現れた男が、手元の資料を虚空に投げ捨てる。そこには、かつてゼルが抱いていた「人間としての幸せ」を全否定するような、冷酷な実験データが並んでいた。
「汚れた世界を一から組み替える。そのための『浄化』に、イレギュラーは不要だ。……紅の11号。お前の出番だ」
背後の暗闇から、静かに歩み出る影があった。 赤い髪を揺らし、感情を削ぎ落とされた瞳で男を見つめる少女。
「……標的は、天導ゼル」
彼女の口から零れたその名前に、一瞬だけ、機械的な洗脳の奥底で何かが波打った。だが、それはすぐに深い闇へと沈んでいく。
「了解。……すべてを、白紙に戻す」
「……っ」
リビングで出来上がった朝食を口に運ぼうとしたゼルを、鋭い頭痛のような感覚が襲った。 『感情の終着点』が、遠くから届く巨大な、そしてあまりにも見覚えのある「悲しみ」を感知したのだ。
「ゼル? どうしたの? やっぱり、味が変だった?」 「……いや。大丈夫だ、スイ。少し、考え事をしていただけだ」
心配そうに顔を覗き込むスイに、ゼルは努めて優しく微笑む。 だが、その拳は膝の上で固く握りしめられていた。
(この感覚……昨日、天界で感じたあの視線の主が、近くに来てるのか……?)
まだ自覚することのない、恋心にも似た執着。 ゼルは無意識に、誰も座っていないリビングの椅子――彼がいつか色葉のためにと空けている、空席の「No.0」を見つめていた。
「スイ、アルテミス。……食い終わったら、少し体を動かしておくか。近いうちに、大きな『色』が動き出す」
「御意に、我が主。万全の備えを」
アルテミスの重みのある声と、スイの小さな頷き。 不吉なほどに澄み切った青空の下、三人の新たな日常が、静かに加速し始めていた。




