第十二話:空席の帰還
天空の庭での死闘から数日後。
人間界の片隅に佇む「天導家」には、かつてないほどに騒がしく、そして穏やかな朝が訪れていた。
「……ふわぁ。……あ、おはよ。スイ、ジン、リア」
リビングに現れたのは、包帯姿も痛々しい紅月色葉だった。寝ぼけ眼で頭を掻くその姿には、かつて世界を消滅させようとした『No.0』の面影など微塵もない。
「色葉さん、おはようございます! 朝ごはん、もうすぐできますから座っててください!」
「おはよ。……あんまり急に動くなよ。魔力回路がまだ安定してないんだから」
スイがキッチンから明るい声を上げ、ジンがソファで弓の手入れをしながらぶっきらぼうに言葉をかける。リアは無言で風を操り、換気のために窓を開けた。
「……うん、ありがとう。……ねえ、ゼルは?」
色葉がリビングを見渡すが、家主の姿が見当たらない。
その問いに、アルテミスがテラスから戻りながら答えた。
「主なら、裏庭で特訓……いえ、体を動かしていますよ。貴女を連れ戻した後の『反動』で、重力感覚が少し狂っているようです」
裏庭へ向かうと、そこには上半身に包帯を巻き、木刀を振るゼルの姿があった。
彼が動くたびに、周囲の落ち葉が異常な速さで地面に叩きつけられたり、逆に重力を失ってふわふわと浮き上がったりしている。
「……あ、ゼル。おはよ」
「ん、色葉か。……起きて大丈夫なのかよ。まだ顔色が悪いぞ」
ゼルは木刀を止め、色葉の方へ歩み寄る。
至近距離で顔を覗き込まれ、色葉はふと、胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚を覚えた。天空の庭で感じた、あの正体不明の熱だ。
(……なんだろう、これ。心臓がうるさい。……まだ、組織の洗脳が残ってるのかな?)
「……どうした? どっか痛むのか?」
「……ううん。……ねえ、ゼル。私、ここにいてもいいのかな。私はみんなを傷つけたし、世界を壊そうとしたのに」
色葉の瞳が少しだけ曇る。
ゼルは一瞬だけ呆れたような顔をすると、大きな掌で色葉の頭を乱暴に撫で回した。
「今更何言ってんだ。お前の席は、ずっと前から空けてあっただろ。……お前がいないと、この家の『No.0』が埋まらねえんだよ」
「……ゼル」
二人の間に流れる、静かで、けれどどこか甘酸っぱい沈黙。
それを、リビングの窓から覗き見していた面々がぶち壊す。
「……相変わらずね。あの二人、あんなに距離が近いのに、なんであんなに『無自覚』なの?」
リアが呆れたようにため息をつく。
「ゼルの『感情の終着点』、色葉さんのあのド直球な『好意』を拾ってないんですか……?」
スイが不思議そうに首を傾げた。
「拾ってはいるんだろうが、アイツの辞書に『恋愛』って言葉がないんだろ。……不器用にも程があるぜ」
ジンが苦笑いしながらパンを齧る。
「……それで良いのです。主がその感情の正体を自覚し、取り乱す姿もまた、一興ですから」
アルテミスだけが、どこか楽しげに微笑んでいた。
朝食のテーブル。
そこには、ゼルが望んでいた「普通」の日常があった。
スイの作ったオムレツを色葉が絶賛し、ジンが余計な一言を言ってリアに風で飛ばされ、それをアルテミスが優雅に眺めている。
ゼルは、隣で楽しそうに笑う色葉の横顔を見ていた。
**『感情の終着点』**に流れ込んでくる、彼女の幸福感と、自分に向けられた「言葉にできない熱」。
そして自分の中にもある、彼女を失いたくないという、重力よりも強い執着。
(……結局、この感情が何なのか、まだわからねえな)
それは「友情」にしては重すぎ、「愛」と呼ぶにはまだ気恥ずかしい。
けれど、今のゼルにとってはその名前などどうでもよかった。
「あ、ゼル! 最後に残しておいたウィンナー食べたでしょ!」
「お前がぼーっとしてるからだろ。ほら、代わりに俺の卵焼きやるよ」
「えっ、いいの!?……あ、これ、ちょっとしょっぱい」
「うるせえ、スイに手伝ってもらって俺が作ったんだよ!」
賑やかな笑い声が、天導家に響き渡る。
理外の王が手に入れたのは、神の玉座ではなく、不器用な仲間たちと、正体不明の想いを抱えたままの「日常」だった。
組織『カラー』との戦いはまだ終わっていない。
けれど、もう、独りじゃない。
「……さあ、飯を食ったら仕事だ。組織の残党を叩き潰して、今度こそ完全に『普通』の日常を手に入れるぞ」
「「「「おー!!」」」」
元気な返事の中に、色葉のひときわ明るい声が混ざる。
名前のない感情を胸に抱いたまま、理外の王と仲間たちの新たな章が、今ここから始まっていく。




