第七十四話 見る前に飛べ その1
(何かが生じはじめている)
第四病棟。
第七病棟。
士族棟。
どこも死者が患者として一定数集まっていた場所だ。
大部屋の仲間たち。
それが、
階上から、
階下から、
床から、
壁から、
ベッドの上から、
崩れかかったのものが患者衣をはだけて転がり落ちて融合しはじめる。
床を這い出す。
ズルっズルっとおたがいを確かめ合うように融け合っていく。
粘液と腐敗汁が混じり合い、それぞれ異なる形態が、同じ計算の別解みたいにして現れる。
名づけようのない怪物として。
アンジュの背後で、融合しつつある怪物が吠えた。
幾つもの口が、
唇が、
叫び、
呻き、
囁き、
吠えている。
巨大な計算機が始動しはじめたみたいにドロドロと動き出す。
*
最初に変わったのは、音だった。
演算が続いていたとき、怪物の内部は無音だった。
ただベタッという音、ズルズルと自分を引きずってヌメっていく気配しかなかった。
意味だけが流れて感情など存在しなかった。
けれど、その様相が変わってきたのだ。
あっという間に。
みるみると。
まるで死者の果たせなかった想いが演算式の空白項に流し込まれた瞬間、それが別の解になったみたいに。
呻きが発生した。
声ではない。
喉を通らない。
空気を振動させない。
頭の中に直接沈んでくるような音。
言えなかった謝罪。
届かなかった叫び。
間違えた人生選択。
奪われた未来。
それらが未整理のまま、演算途中の値のようにして怪物式に注入されていく。
内部から湧き出てくる黒い後悔に侵されて皮膚が変質していく。
———これが死だ!
皮膚に刻まれていた数式がところどころで崩れ、
人間の言語に似た断片を、
中から泡が浮いてくるみたいにして、
ぽそっぽそっと呻きはじめる。
「ごめん」
「ちがう」
「ヤだ」
「まだ」
どれも途中で切れている。
(なんなんだ、こいつら?)
(死んでも死に切れない?)
(想いだけがぶつぶつと弾けている?)
粘液が増える。
透明だったものが、
黄ばみ、
赤黒く濁り、
ところどころ泡立つ。
それは腐敗汁ではない。
腐敗するにはまだ早すぎる。
溶解だ。
床に滴ると、そこから再び菌糸状のものが広がり、壁に貼られた掲示物や患者名簿に絡みつく。
名前の上で菌が脈打つ。
まだこの世に未練があるみたいに。
*
怪物の内部で顔が増えはじめた。
胸に埋まった顔は泣いている。
腹部に浮かび上がる顔は歯を食いしばっている。
背中から半分だけ露出した顔は何かを見つめつづけている。
どの顔も、死の瞬間の表情。
感情の墓場。
一歩進み、
二歩戻り、
後悔し、
悔やみ、
自己憐憫しながら、
壁に額を打ち付けながら。
徘徊。
行くべき場所を失った魂が、同じ通路を永遠に歩かされているようだった。
時折怪物は急に立ち止まり、
何かをふと思い出したように天井や壁を掻きむしる。
塊が咆哮する。
粘液が霧状に噴き出す。
怪物の胸に埋まった顔。
腹部から覗く眼。
背中で呻く唇。
「ありがとう」
「すみません」
「もう少しだけ……」
*
「早く早くぅ!!」
我に返った。
なぜだろう。
あいつらの気持ちがわかるのだ。
自分のことのようにわかる。
(同じ死人だから?)
かすみさんが切れ切れに悲鳴を上げている。
アンジュもさすがにどうしていいかわからないみたいで、おれをせっついてくる。
明日香は教科書を放り投げるのも忘れて立ち尽くしたまま怪物を凝視している。
「……呪いは祝い、呪いは祝い」
(早くって何がだよぉ?)
おれはアンジュに訊く。
「早く実体化して! もう待てないの!」
ダイレクトにその言葉が返ってくる。
———そのとき、
視界の隅で、またあれが動いたのだ。
フサフサの尻尾が。
リス野郎。
クリクリした眼でこちらを見ている。
いつ戻って来たんだ?
(お待たせしまシた)
(待ってなんかいねえよ)
(淋しかったでショ?)
(別に)
(こうなったら仕方ないから荒療治しまシ)
(何が?)
(第二波がはじまった以上、もう待ってはいられないってことでシよ)
窓の端に現れたリス野郎は、あの大きなクリクリした両眼でこちらを見たまま、いきなり告げてきたのだ。
「強制起動するしかないでシ」と。




