第七十三話 未知へ その4
皮膚の表面から微細な粒子が滲み出てくる。
微かな空気の移動があってもその粒子は宙に浮かばない。
隣の死体へと吸い寄せられていく。
死体同士の距離は変わっていない。
なのに粒子はその距離を無視して移動しつづけた。
皮膚の記号が、どんどん増えていく。
(……式?)
(演算式?)
一体の遺体に刻まれた式は、未完成のように見える。
途中でぷつんと切れているのだ。
変数が、未定義のまま放置されているみたいに。
けれど隣の遺体の式が、
それぞれ個別なはずなのに、
個体間の距離を飛び越え、
その距離を繋ぐようにしてその欠損を自然に補完する位置に現れはじめる。
式と式が、互いを前提として結び合い存在しはじめているのだ。
「いったい何が起こってるの?」
*
病室内の十二体の死体の皮膚に刻まれた記号群が、視覚的に連結されて見えはじめたのだ。
個々の死体を見ると断片。
けれど少し距離を取ると———。
記号として配置した理解不能な計算式みたいなものが現れる。
菌状の粒子は、もはや菌ではなかった。
それは演算の副産物だった。
計算が進むたびに不要になった値が、粉となって排出されるみたいにして必要な値だけが別の死体へと移動していく。
そしてやがて、物理的な変化がはじまった。
死体同士の境界が曖昧になってきたのだ。
(融合しはじめている?)
皮膚が溶けるわけではない。
縫い合わされているわけでもない。
腕は、別の胴体の「係数」となり、脚は「条件節」として再配置される。
人体としての整合性が失われていく。
骨が軋む音。
肉が崩れていく。
ズルッ、ズルッと、患者衣からその死斑だらけの体だけが軟体動物みたいに抜け出てくる。
ズルッ、ズルッ。
やがて、複数の死体がみるみる繋がり溶解して、ひとつの巨大な形を取りはじめた。
塊。
頭部は、前を向いていない。
上も下もない。
まるで演算式の塊。
その塊のあちこちからギョロッとした眼が幾つも表れる。
口や鼻がてんでばらばらに生じる。。
腕が幾本も塊のところどころから伸びている。
「……なんなんですか、これは?」
そこにちょうど来たソジュンが驚きの声を上げ立ち尽くす。
*
皮膚一面に刻まれた記号は、もはや個別には読めない。
だが外から見ると分かる。
式と式が合算され、簡略化され、最終項だけが残っている感じなのだ。
その最終項が、
ゆっくりと、
呼吸するように膨張しはじめる。
そしてどこからともなく、黒い蠅が再び現れた。
最初は一匹。
次に二匹。
黒蠅は死肉を求めていなかった。
腐敗にも、血にも、興味を示さない。
彼らが集まったのは、記号が剥がれ落ちた空間。
蠅はそこに止まり、羽を震わせ、空中に微細な軌跡を描いていく。
骨が擦れる。
湿った粘液が床を剥がす。
菌糸が裂ける乾いた音が混じる。
ギギギッ。
ズルッズルッ。
全高はおよそ三メートル。
だが、形は安定しない。
眼鼻口がばらばらな複数の人間の塊が流動体みたいになっている。
複数の胴が縦に重なったりしている。
肋骨は外側に反り返り、数式の記号のような角度で突出。
皮膚も一様ではない。
ある部分は、死体のままの青白さ。
ある部分は、紫黒色の死斑。
そこに、半透明の粘液が湧き上がり、その中で菌糸が脈打つのが透けて見える。
「……生きてるみたい」
生きているのだ。
その粘液は、唾液でも、体液でも、膿でもなかった。
滴り落ちるたび、
床に触れた瞬間に、
病室の床に沿って走っていく。
怪物の脚は二本ではなかった。
人間の脚を基礎にしながら、途中から節が増えている。
膝関節の位置が合っていない。
関節が必要なところに追加されている。
その歩き方は、歩行ではなかった。
ベタッ、
ベタッ、
ベタッ、
一歩踏み出すごとに、黒塊の全身は「次に安定する形」を選び直す。引きずるように見えたかと思えば、次の瞬間には跳躍に近い動きをする。
廊下の天井に、頭部がぶつかった。
———いや、頭部というか。
顔らしきものが、
胸部から、
腹部から、
複数、半ば埋まった状態で露出している。
どの顔も、血走った眼は何かに驚愕したように見開かれている。
グチャ、
グチャ、
グチャ。
肉を引きずる低音と、
イーンという意味不明の高音が重なり病棟全体の空気を震わせる。
それを耳にした瞬間、
平衡感覚が狂ってアンジュは体を揺らした。
吐き気。
方向感覚喪失。
声が出てこない。




