第七十話 未知へ その1
まだ三日満期までには十二時間近くもある。
午後三時。
脱出する前の、最後の再点検をすることになった。
病院関係者として、脱出するには患者さんの死骸をそのまま放置してしまうのは忍びない。
しかし、そうするより方法がない。
そのお詫びというか、そういう意味合いもある点検だった。
「立つ鳥、跡を濁さず」とかいうけれど、疲れているのに再点検はさすがにきつかった。
(死んでるんだから、もうほっとけばいいじゃん)
「まだやるんですかぁ?」と、さすがに困惑した感じのかすみさん。
あらためて二人して手を合わせた。
あのとき、このようにして二人で合掌してからまだ二日半しか経っていないというのに、もう半世紀ぐらい動き回った気がする。
「三百二十一年間生きてきましたけど、さすがにこんなの初めてですぅ」
天明の大飢饉のことを話し出した。
「あのときも餓死者がすごかったんですけどね。浅間山が噴火しちゃって」
不謹慎とかそんなことを言ってる場合ではなかった。
眼の前にずらっと死骸が並んでいるのだ。
まずは消化器系の内科総合病棟だった。
朝の光に包まれている窓際のベッドからはじめた。
真冬とはいっても、あのときまでは館内空調が効いていて適温に保たれていたから、寝乱れた様子の患者さんはひとりもいない。
苦しみもなかったようだ。
(ということは、やはり一瞬?)
こちらの大部屋は、かなり広い。
そこに整然とベッドが並んでいる。
ひとつの大きな病室に十二体。
「……静かですね」
かすみさんの独り言が、深夜に水滴が落ちていくように院内に伝わっていく。
吐く息だけが、しんとした病室に伝わっていく。
「考えたくないんですよぉ」
好血暗黒ダークサイドを告ってしまってからかすみさんは高校女子になってしまっていて、幼く首を振っている。こういう状況になると暗黒部分がじわじわと出てきて、自分が自分でなくなっちゃうみたいなのだ。
「……なんていうか、ワクワクドキドキ、ジトーっとしちゃうんですよね」
でも、もう残っている看護師はアンジュとかすみさんしかいない。
倉田ママはあの後、マスコを連れて、止めるのも聞かず病院から去って行ってしまっている。
「わかってる」とアンジュは短く答える。
わかってる。
女性の精神状態は化粧に表れる。
二人ともすっぴん。
かすみさんは童顔だし、すらっとしていて、髪も短くマニッシュだから、まんまJKエルフみたいに見える。
アンジュも、恋人?のような貝矢一尉が現れたけど化粧もそのまま。
感動のハグはしたけど、表面はなんだか平静を装っちゃって、しきりに何やら計画を立てて彼に相談していた。
どうやら西界州の都市群はまだ表面的には王国に忠誠を誓っているが、企業体が早くも有利な方につこうと色々画策している感じがあるという。
もしかしたらすでに寝返っているかもしれない。
だから民間と軍で通信事情が異なってしまっている。
「これからもっと、そうなるかもしれない」
「どういうこと?」
存命している外務省の中にもすでに、魔国側に寝返ったほうがいいという在外公館の領事とかがが現れてきているようなのだ。
強い方につく。
国際政治の常識、とかソジュンなら言うだろう。
そうなったら、ほんとうにもう混沌としてきて、誰を信用したらいいか、どこの部署なら信頼できるか、疑心暗鬼になってしまう。
貝矢はそのことを言っているのだった。
「信頼は安心という馬に乗ってるんだよ。その馬が突然暴れ出したらどうなる?」
*
窓際のベッドの患者さんは、髪に白いものが混じりはじめた四十代の男性だった。
カルテによると、会社の仕事のストレスで重度の胃潰瘍になり入院していたようだ。胃の噴門部に大きな潰瘍ができてしまって吐き気もあり、うまく食事ができない。痛みもかなりあった。
けれど、もちろん亡くなってしまうような重症ではない。
眼を閉じて安らかな表情をしているその口元に、アンジュは自分の手のひらをかざした。
すでにあの直後に当直看護師が協力し合って、すべての病棟の入院患者さんたちの呼吸の有無とバイタルは確認済みだったはずなのだが、祈るような気持ちでもう一度その息を確かめた。
「……彼も、……ですよ」
感染防止のマスクをしたまま、いつのまにか脇に来ていたかすみさんの囁くような声。
仰向けに寝た彼の両眼尻にも赤く光るものが溜まっていた。
血の涙?
少し顔を動かすとそれは乾いていず、頬を伝って光りながら流れ落ちていく。
すでに三日も経とうとしているのだから死は完結しているはずなのに。
「……なぜ、みんな?」
その疑問が再び喉元までせり上がってきた。
死顔には実際いろいろあって、アンジュもそう多く接したわけではないけれど研修中のときも含めて何例か立ち会ったことがあった。そう、魔術省から左遷されたといっても、あらかじめ「修行の一環として」、幼い頃より高位魔女ついての研修は受けていたのだ。
そのときから、死に顔は見ている。
息苦しかったのか、口が裂けそうに開いたままの苦悶の表情や、穏やかな微笑、眼を見開いたまま何かに驚いたような顔。
臨終のときの状態によっていろいろだ。
開いている口の筋肉が驚愕したように硬直してしまっていて閉じさせるのに苦労したこともある。
それはおれも、初めのうちは内科志望だったから少しだけわかる。
かすみさんが細かく震え出す。
息まで乱れている。
「……わたし、血がゾクゾクして、……イケナイ子だから三百年間ずっと悩んでて」
「いまそんなこと言わないで」
アンジュはぴしっと告げた。
かすみさんに言っているのではない。
自分を叱咤しているのだということがおれにもわかる。
こんなこと、わたしだってやりたくない。
もうすべてを放り出して逃げ出したい。
「悲しい夢でも見たんでしょうか?」
おそらくそうではないだろう。
臨終のとき、眼球が動かなくなって眼尻に水が溜まることはよくある。
最期の生理的現象だ。
失禁することもあるし脱糞することもある。
ただ、その最期の涙が赤いというのが解せない。
「でも、ほとんど全員」
わからなかった。
泣いたの?
病棟全体の患者さんがそうなんてありえない。
———おれは次第に気がついていた。
これはサインなのだと。




