第六十四話 もうひとつの脱出 その1
「いまそんなことやってる場合じゃな〜い!」
市会議員の磯部とかいうオールバックポマードテカテカ男が吠えまくっている。
「いや、かえってカモフラージュになるかもしれない」
「カモフラージュ? なんじゃそりゃああ」
顔も洗っていないのか、てかてかギラギラ無精髭だらけの痩せた磯部はこちらの何かのトップブランド?(どうせバッタ物だろうけど)ロゴ入りジャージを派手に翻して貝矢一尉にも食ってかかる。
「よお、軍人さんよぉ、いつもはタダメシ食わせてもらってるわけだろ? おまえらはよ、王国民の税金でぬくぬくしてるわけだ、そうだよな? それが、なんだあ、エラそうに」
遥かに身長と体格でまさる貝矢がほとんど表情を変えずに、槍の刃先のような視線を磯部に注ぐ。
武士階級が、形を変えてるにしろずっとつづいていたわけだから、この王国では軍人とか軍隊の力が強いのだろうと勝手に思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「わかってらっしゃるんでしょうな、みなさん」
磯部が手振りをまじえて言う。
みなさん、というとこだけ選挙演説みたいだった。
「いまは緊急事態です。お国の存亡危機。そんなときにですなあ、家に閉じ込められたままになってるペットを救い出したい? なに寝言くっちゃべってるわけ? そう思いませんか? 自分の命が危ないんですよ、わかってます? ペットどころじゃないでしょ」
「まず自分を優先しろって言ってるんですか?」
温厚そうなソジュンが食ってかかる。
「そうだよ、にいちゃん。人間を優先しろって言ってんだよ」
ほとんどクレーマーの口調だった。
こいつは市会議員とか自称してるけど、ほとんどヤクザだ。
「しかもだ」唇をひん曲げて磯部はつづけている。
「しかも、『そいつらはあなたの大事なペットですか?』って訊きたいわけ。わかる? そいつらはおまえのペットなのか? その猿みたいなやつと同じ、おまえのペットちゃんなのか? って、訊いてるわけ。ちゃうだろ? そうじゃないでしょ? その辺の、街頭でマーキングしてる見知らぬワンコなんですよ。そうでしょう、みなさん?」
磯部は訴えかけるように両手を広げてそこにいる全員に問いかける。
「そーゆう奴らをですね、こんなときに、いいですか? こんなときに無理して救う義務がどこにあるんですか? あん? きみ、どうなんですかねえ」
マウント取って勝ち誇ったように正論らしきものを並べ立てている。
「……ない、です。でも」
「でも、何?」
問いかけられた色白のソジュンはうなだれてしまった。
「だろう? 義務もない。責任もない。時間もない。他人のペットなんだからな、その辺でウンコしたりマーキングしたり、迷惑この上ないやつらを救い出すなんて義務はどーこにもない」
磯部は勝ち誇ったように胸を張っている。
「猫」
ミーちゃんというケバい化粧の女性が短く呟いた。
「あんたさ、猫たちのこと、忘れてない?」
*
再び試案が練られた。
(いったい、どうするんだ? あのポマード野郎はむかつくけど、正論でもあるのだ。他人のペット。ペットたちは個別に飼われている。しかも誰がどのように飼っているのか、外からでは見分けがつかない。ペットを飼っているかどうかさえ家の外からではほとんど判別不能なのだ、そんなことまでケアする理由があるのか? 市会議員はそう言ってるのだ)
誰かの家の中で飼われている小動物たち。
あれからまだ三日も経っていないのだから、ほとんどの子は生き延びているだろう。
カラスなどの野鳥やキュル子とかもあのとき寝ていたかもしれないがこうして無事だったのだから、他の子だって異常なかったかもしれない。
そうすると、どうなる?
飼い主はスリープデスしていて朝になってもベッドの中から起きて来ず、ペットたちは腹を減らしているのだけれど、いつまで待っても食事は作ってもらえない。
そういう状態になるだろう。
どうしちゃったのかな?
飼い主と一緒に寝てる子は、起こそうとして頬とかをペロペロ舐めるかもしれない。
足先で遠慮がちにトントンするかもしれない。
それでも起きてこない。
そうなったら、どうなる?
自分の寝床がある子は、飼い主の寝室のドアをカリカリするかもしれない。
どういうことかわからず、家の中をうろうろして、自動給水器とか自動餌やりがあるところは自分でなんとか食べちゃっても、それが尽きれば補充はない。まして、飼い主が毎朝美味しい食事を与えてくれるとこは、それがあの朝から途絶えてるわけだから、あの朝マスコとサヤカが「お腹すいた」とアンジュを迎えに来たように空腹のままただ家の中をうろうろして、やがてぐったりして、なぜこうなったのか、なぜあんなに優しい飼い主が起きてこないのか、食事をくれないのか、不思議に思ったまま、空腹を抱えてどんどん時間だけが過ぎていく。
———そうなるだろう。
それでも彼らは、いまならまだ生きている可能性が高い。
それに、ソジュンは気づいてしまった。
気づいてしまった以上、居ても立ってもいられない。
守れるかもしれない命が、助けを待っている。
なのに、自分の安全だけ確保できればそれでいいのか?
彼の言いたいことは、たぶんそういうことだった。
(こいつは、なんてことを気づかせてくれたんだ!)
おれでなくともソジュンを恨めしく思った。
気がつかなければそのままこちらの脱出計画に専念できたのに、動物まで救出したい?
寝言も休み休み言ってくれという感じ。
あのときは確かにそれが実感だったのだ。
周囲を見回せばわかる。
人間の死体がずらっと並んで横たわっている。
なのに、動物たちの心配?
守れるかもしれない命。
子供もいないし、ガールフレンドさえいないおれには、いままで考えが及ばなかったが、確かにそうなのだ。
まだ「生きているかもしれない」と、もう「死んでいる」には、断絶がある。
その、まだ守れるかもしれない、生きているかもしれない命が、猫や犬や小鳥やウサギかもしれないけれど、あの家々のドアの向こうに存在している。
夜中にあれが起こったのだから、鍵が掛けられた状態の家の中で。
でも、それがわかったとしても、どうなる?
困った。
市会議員の言うことも道理ではあるのだ。
家というのは、どんなボロ家だって、壁に囲まれ、ドアというものがあるんだぞ。
(ああ、めんどくせえ)
なんでこんなこと気づかせてくれるんだよ。
気づいた以上、どうしようもなくなるじゃねえかよ!
ジレンマ?
指をくえわえてあいつらが餓死するとこを想像だけしろってか?
冗談じゃねえだろ。
でも、どうしようもないことだ。
少なくともこれはアンジュの責任ではない。
「……迂闊だった」
アンジュは唇を噛んでうなだれている。
生存者は、人間だけではないのだ。
「でも姫様には」
やらねばならないことが山ほどある。
小声だが、ちょんまげ老医師の木村は「姫」という言葉を公然と口にしはじめている。
AIからの知らせで、体内IDで確認されたのだろう。
皇統だか王族だか知らないが、その血筋で現在残っているのはアンジュとかわずかしかいないということがわかったためかもしれない。
木村にとっては確かにその方が大切だということはわかる。
王国の存亡にかかわるのだから。
王国と、名も知らぬ小動物。
どっちが大切なのか?
「……こんなときに、ほんとすいません」
ソジュンという若者は、アンジュの苦境とかそんなことを知るはずもないけれど、キュル子を肩にしたままそう頭を下げている。
「いいのよ、確かにそうなんだから」
アンジュは自分が慰めてもらいたいのはずなのに、高校生の山夜ソジュンに気をつかっている。
キュルルン。
そんなことを知ってか知らず、肩の上の小さな青い猿が声を上げる。




