第六十一話 箱舟の中 その2
車のエンジン音。文明の音。
「伏せて!」
アンジュは咄嗟にみんなに身を隠すように告げた。
応援は要請していないし救援が来るはずもない。
敵である可能性もある。
アンジュは身を隠しながら窓辺に駆け寄った。
ジープだった。王国軍の軍用ジープ。
それが猛スピードで病院前のコンコースに入ってきて急停車したのだ。
「小森さん、貝矢です」
迷彩服を着た屈強な体格の貝矢一尉が、おもむろにそこに立って病院の建物を見回していた。
アンジュの心拍が一気に上がる。
「大丈夫、味方だから」
そう言い置いて、まっすぐ飛ぶみたいに階下へ駆け下りていく。
がらんとした外来エントランスに、ギリシャ彫刻みたいな男がすくっと立っていた。
(……なんだ、こいつ)
日焼けした浅黒い肌。
軍服の厚い生地を押し返すような、硬く研ぎ澄まされた体躯をしているのがその姿勢でわかる。
百八十五は優にあるだろう。
相当でかくて逞しい。
静かな威圧感が圧倒的なのだ。
数々の戦場を駆け抜けてきた、そういう血の匂いが染みついている。
髭を剃る暇もなかったのだろう、無償髭で覆われたその顔はかえってマッチョさを際立たせている。
(こんなのが、ネキの恋人?)
アチャ~〜〜!!
なのに、なぜだろう。
久しぶりの再会なのに。あんなに心配していたのに。心拍数が速まっていない。ときめいていないのだ。恋人との再会だというのに。
一挙に「現実」が押し寄せてきたってところだろうか。
困惑というか、戸惑いに似たものがアンジュを苦しめている。
(ハワイから動けない、というあのときの知らせが約一日前。なのに……)
再会の喜びと微かな不安を抱えたまま、アンジュは性急過ぎると思うほどに 口早にあの解剖の結果を貝矢に話した。そしてそれをアップしたがすべてBANされたことも。
ところが貝矢はそれを聞いても驚ろかなかったのだ。
だろうねというように、うなずき返しさえした。
アメリカ大陸東海岸沿いの「マジェスティ」と呼ばれる地区は独立商業都市群だが、王国にも魔国にも属さない、金融とITの独立都市国家連合でメガコーポが支配している。
その金融市場がパニックになって株式市場を閉鎖したのだという。
「大恐慌ですよ」
なので、即座にロッキー山脈以西の西岸にある西界州アメリコ、テック企業とAI開発の拠点「ハイネス」と連携して、流言飛語や噂、陰謀論、捏造画像などでのパニック売りを抑えるため、ブレイカーを発動させた。
その処置のBANだろうという。
貝矢はあくまで、なぜか冷静そのものだった。
「ということは」
「国際支援など当分無理だということだね。王国同盟であるはずのアメリコも妙な動きをしてる」
「BAN?」
「パニックを防ぐためと言ってるが」
「それだけじゃない?」
貝矢一尉は微かに、しかし当然のごとくうなずいた。
「離陸許可が出てないのに無断で有志のみで脱出しましたから」
「……そうだったんだ」
一瞬でも疑ってしまったことに、アンジュがうなだれる。
そういうこと気づいてしまう自分がイヤだった。
でも気づいてしまった。
いまにも泣き出しそうなその肩を、「わかってるよ、それでいいんだ。我々は諜報部員でもあるんだから」というふうに、逞しい手がすべてを呑み込んで、そっと抱き寄せる。
「で、そのアップしたという解剖資料は?」
医局へと歩きながら貝矢がそっと問いたずねる。男のひとは無理なサヤカは、かなり離れた廊下のところから二人の様子をぼんやり眺めている。
「データに落とし込んであるから後で見てほしいんですけど」
アンジュは敬語を使っている。
見上げるように貝矢に視線を向ける。
「けど、何?」
そのときまた銀蠅が、、、
と思った瞬間、
何かが起こってその蠅がアンジュの前から消えた。
ん?
「オルマン」
貝矢が何気にゴツく握った手をアンジュの前でほどいた。
彼の手のひらの中に小さな銀色が潰れている。
しかもそれは破れた腹からチップのようなものを露出させている。
「虫使いが近くにいるね」
静かにたずねてくる。
「捕獲する?」
「あえて泳がせてるんだろ?」
おれは驚愕していた。
蠅が機械だったからじゃない。
現れたその貝矢一尉とかいう軍人のスピードにだ。
アンジュは立ち合いのとき相手の動きを見切る。0.01秒くらいで反応できる。一緒に死闘を繰り返したからよくわかる。
そのアンジュがいまの貝矢の動きを追えなかったのだ。
視線がついていけなかった。
すごい動体視力をしているアンジュの眼の動きのさらに先で、この貝矢とかいう一尉の手が動いた。
そして何気に蠅を捕まえ、すでにそれがオルマン蠅だと認識している。
(こいつ、何者?)
話の道筋が見えない。
蠅使いとかいうオルマン帝国?の密偵みたいなのがこの病院の近くにいて、銀や黒の蠅を、本物の蠅にまぎらせてこちらを偵察しているというのに、ほっとくという。
「泳がしてるんだろ?」という、当然のことみたいに交わしている二人の会話。
諜報部の活動を通して知り合ったと言ってるけど、ただの恋人同士じゃない?
二人は階段を並んで上がりながら、秘密を共有するようにふっと沈黙した。
肩に青いモンキーのようなキュル子を乗せた山夜が、階段の上からじっとその姿を眺めている。
そしてそれから、
迫り来る敵を前にして、思わぬ展開が繰り広げられたのだった




