第六十話 箱舟の中 その1
事態が少しずつ動きはじめる。
いままで黙って協力してくれていた倉田ママが、マスコを連れて、やはり自分のマンションに戻ることにしたという。
「もう誰もいないんだから、帰ってどうとかわからないけど、食料? それはなんとかなる思うの。生鮮品は無理だけど、レトルトとかね。二人が生きていくには充分すぎるほどあるわけだし、これからどうなるかわからないけど、なんとかなると思うのよ」
倉田ママはその風貌からママと呼ばれてるけど独身のはずだった。
アンジュは止めた。
具体的にはどうなるとは言えないけれど、これからもっとキツくなるかもしれない。だからなるべくみんなで一緒に、と勧めたのだが、倉田ママは首を振った。
もしそうなるとしても、そうなるまで普通の生活をしていたいのだと。彼女は涙を浮かべながら告げた。
「だって、普通の生活、できるわけでしょう?」
おそらくもうすぐ水道が止まる。ガスも出なくなる。電気も止まる。
インフラを支えるひとたちがいなくなったら、いずれそうなる。
だからもう、普通の生活なんて無理なのだ。
いくらそう言っても、倉田ママはマスコの手を握ったまま、うなずかなかった。
そして急に、思いがけないことを口籠るようにして倉田ママは呟いたのだ。
「……あなたが抵抗するから」
「え?」
「あなた、何者? なんでそんなに戦ってるの?」
なんでって。
「だってそうでしょう? 迷惑なのよ。みんなのことも考えて」
意外な口調で告げられた。
「……考えてるからこうして」
アンジュは言葉に詰まった。
「降参しちゃえばよかったのよ。そうすれば、そうすればあいつらだって何もしなかったかもしれないし……」
獣人兵が?
武器を持って降下してきた彼らが、何もしない?
ほんとにそう思ってるわけ?
「わたしが、……悪いの?」
思わず訊いてしまった。
倉田ママは視線を斜めに落としたまま答えない。
マスコは白眼を剥いている。
*
そして、ひとの気配があることに誘われたのだろう、近隣からぽつぽつ、わけがわからないまま生存者の群れが集まってきている。工作員が混じっている可能性もあるが識別できない。
もう収拾がつかないほどに混乱しはじめていた。
夜の屋上での獣人兵との乱闘のあと、アンジュが昏睡している間に、避難民がまた増えていたのだ。
まず、白髪で頭部が禿げ上がった老人、元葉繁彦。
「名老ですよ」
声を潜めてかすみさんが言っている。
ホームレスじゃなくて?
国立院という国立大学みたいなのがこちらにもあって、そこの教授職とかを定年で辞すると、出身が平民でも名誉士族となれるとからしい。
要するに、権威を盾にした生活が保証される。
いつものように眠れぬまま夜を過ごしていたら、朝になっても身の回りの世話をしてくれる「おばさん」が現れず、どうしたもんかと蔵書の山の間をうろうろしていたらしい。
名誉だかなんだか知らないが、身なりはなんというかホームレスとさほど変わりなかった。ガウンというか古いコートと汚れたダウンを重ねて着込んでいるのに、なぜか足元は裸足のままで、イボイボの付いたサンダル。
履いているズボンもおそらくパジャマなのだろう、いつ洗ったのかわからないほど汚れていて、つんつるてん。
おまけに木の根のような杖をついていて、たぶん老眼鏡なのだろう禿げ上がった頭部にワイヤーのメガネをちょこんと載せている。そして小さく震える手で小汚いポケットをまさぐり、そこから吸いかけの煙草を取り出し、震える手でライターを幾度もこすって火を点けようとする。
「……すいません、全館禁煙です」
アンジュが遠慮がちに告げる。
「ジッポなんだよ」
「はあ?」
「銀製」
「だから?」
「許せるか?」
「だから、禁煙なんですよ」
アンジュもつい、きつく告げてしまった。
「何言っとるんかぁ!」いきなり怒り出した。「みーんな死んどるんだろ? 違うか? 死んじゃってるんだろ? 誰の迷惑になる?」
「わたしです」
「はあ? あんた、ここの院長なのか?」
「看護師です」
「恥を知れ!」
「はあ?」
「顔にでっかい絆創膏貼りおって、ニキビでも潰したか? たかが看護師の分際で、名誉士族に意見するとは、何事だあー!」
「すいません」
「あのだな、一介の、ただの看護師サマが、わしに命令するわけ?」
「命令はしてません。お願いしてるんです」
アンジュはこういう老害に慣れているのか、一歩も引かない。
なだめようともしない。
あんな獣人兵とかが跋扈しているほど科学が発達しているのに、なぜこんなワガママ老人の世話をいまだにマンパワーでやっているのか。それだけの科学力があるなら介護ロボとか簡単にできそうなものなのに——。
そのときになっておれはようやく悟った。
こちらに来た当初、あのトイレの鏡に向かって、「ささやかな回復魔術」とかアンジュが謙遜していた理由が。
こちらは、向こうでいう魔術が科学なのだ。
おれから見て、どう考えても魔術としか思えないことが科学で、向こうでは科学によってとか、科学の力でとか当然のように受け止めていたものが、こちらでは魔術なのだ。
だから、向こうでは不可能としか思えないような種の壁まで越えてしまう獣人兵なんかが普通にいる工学力があるのに、こんなどうしようもないボケ老人の相手をいまだにマンパワーでケアしなければならない。
(同じパラレルといっても、それぞれの色合いがある?)
虹の中でも、それぞれ色が異なるように。
「お……世話になりたか、ないんだがね」
エラそうに、無精髭だらけの皺唇がぶつぶつそう呟きながら案内された空室のままの個室の内部を見回している。
どうやら形骸化したこの王国は、やたら名誉職が多かったみたいなのだ。
とにかく文句の多いその老人の居場所を見つけてやり、皺だらけフケだらけの彼は、どうやらナイスボディのかすみさんが気に入ったみたいだったから、お願いした。
「……大丈夫?」
「あんなの、なんでもないですよぉ」強がり言ってる。「三百年間耐えてきてますから」
「お願い」
アンジュは頭を下げた。「煙草の煙が苦手なの」
おれはかすみさんに同情した。
確かに煙草の臭いというのは、吸わないものにとってきつい。
でもーー。
「あんた、エルフのくせに、いいオッパイしちょるねえ」
ハゲ老人は差別意識丸出しで舌なめずりしている。
(毒矢で殺してもいいですか?)
カオス。
みんなもうそれぞれ勝手なことを口にしている。
団結なんてほど遠い。
しかも圧倒的な戦力の差がある。
黒い巨大な環のような大型輸送機の中からどんどんいろんなのが行き来しているのが肉眼でもわかるようになった。
ほとんど宇宙人の侵略だ。
なのにみんなは「降参だ」「徹底抗戦だ」と勝手なことをくっちゃべっている。
特に新たに外から来た連中がうるさかった。
生存者は、わがままジイさんだけではなかったのだ。
蛾や虫が明るい光に吸い寄せられるように、正体不明の避難民が増えてきている。
元市会議員だったとかいう中年の暗い感じの男。
ホストとホステス。
病院の近くにはもちろんそんな場所はないけど、あの時間はちょうど彼らの商売の「ハケ」の時刻で、むろんそういう連中目当ての白タクとかも繁華街の横山町とかにはいるから、なんだかわからないけど酔っ払ったままそれに同乗して自宅のマンションに戻って雑魚寝した。
ホストはほんとはシェアハウスというかお店が用意している合宿所みたいなとこでの寮生活が基本だから、「ヤベエ、どやされちまう」というので朝になって戻ろうとして、異変に気づいたらしい。
そんなのとか、ただの不眠症引きこもりの女とか。
(アンジュは疲れ切ってるんだぞ、わかってんのかよ!)
全然そいつらには通用しなかった。
全員、揃いも揃って、自己中そのもの。
———そのとき唐突に音が伝わってきたのだ。
死者たちの匂いをやわらげるために開け放っていた窓の外から。




