第五十七話 交渉決裂
患者も来ない、
往診もない、
子供たちの声も聞こえない、
シーンとした冬の気だるい午後。
アンジュはぺたんとプレイルームの床に腰を落として壁に寄りかかり、またうとうと眠ってしまったサヤカの頭をやさしく撫でながら、回想ともつかない思い出話を、たぶんおれに聞かせるつもりで話し出した。こうなってしまった発端の、魔国との貿易交渉決裂をめぐることを。
「……会談が終わったのは、午後三時を少し回った頃だったの」
いきなり階段、じゃなかった会談のことから話しはじめた。
「……もうわたしが魔術省職員だということは知ってるよね?」
「いちおう」
「霞ヶ関の魔術省本庁舎はね、赤坂よりの場所にあるんだけど、そこで魔国との何度目かの貿易交渉会談があったのよ」
すべてはそこが始まりだった、とアンジュは呟いている。
「表面的にはね」
その長い廊下を、二年前にも魔術省職員だったまだ十六歳の小森安寿は書類を抱えて歩いていた。
バイトではない。正式に採用された職員として。
「十六歳でエージェント?」
「十五歳のときにはもうそうだったの」
石造りの壁に沿って、細長い窓から秋の光が斜めに差し込んでいたのを覚えている。
古い建物の匂い。
紙とインクと、どこかで沸かしている茶の匂い。
廊下の角を曲がったとき、声が聞こえた。
「――決裂だ! 完全に」
立ち止まった。
窓際に二人の男が立っていた。
通商局の上席次官と、外務省から出向してきている優秀そうな若手官僚。アンジュの顔を知らないのか、声を潜める様子もない。
「黎晶の採掘権と輸出枠、両方を要求してきた。しかも、しかもだ。軍事利用の制限条項は認めないと居丈高に言いやがる、いいか? 黎晶はこちらにあるんだぞ。王国内でしか産出されない。だからいままでは、そのおこぼれを恵んでやってたのに、なんなんだ、あいつらの態度は? 直接採掘権まで要求してきて、一歩も引き下がらない。あろうことか軍事利用まで認めろと言い出してる。そんなもの認められるはずがないだろ!」
激昂していた。
「……呑めるわけがないですよね」
外務省官僚が同意するようにうなずき返す。
「向こうもわかってて言ってるんだろう。最初から合意する気なんてなかったんだ」
貴重な鉱物資源の取り引きを魔術省で行う。
それが意味するところ。
アンジュは歩きつづけた。
歩きながら、胸の奥に何かが落ちる感覚を覚えた。
小さくて、重いもの。
嫌な予感、という言葉では足りない気がした。
(それが二年前って、、、こっちではそんなまだ学生みたいな年頃で、官庁で働いてる? しかもバリバリの雰囲気で。そんなに早熟なのかよ、こっちは)
*
黎晶が最初に「正式」に発見されたのは、それより五年程前のことだった。
なぜ正式に、かというと、
「黎晶という物質そのものは古来から知られていたの」
それも刀匠たちの間で。
刀に練り込むと不思議な力を発する物質として。
しかし、現在の科学がその特殊性を認識したのは五年前だったと、そういうことらしい。
日本列島の中央を走る断層帯、その深部。
通常の採掘作業中に偶然掘り当てた鉱脈は、最初は誰も正体を知らなかった。微かに青みがかった半透明の白い結晶で、魔術的な感応性が異常に高い。それだけなら珍しい鉱物というだけで終わっていた。
だが問題は、その共鳴特性にあったのだ。
特定の術式周波数を与えると、黎晶は増幅する。熱でも光でもなく、もっと根源的な何かを。
研究者たちはそれを「存在圧」と呼んだ。
生物の神経系に直接作用する、観測はできるが定義がむずかしい神秘的な力。
最初期はそれで注目された。
(硝石とレアアースを合わせたみたいな特質は、まだ認識されてなかったのか)
「そうなの」
そして、環太平洋王国の研究チームがその危険性を認識したのと、その流出した標本を魔国側が入手したのは、ほぼ同時期だった。
違ったのは、その後の判断。
王国側の研究チームは報告書の末尾にこう書いた。
『本物質の軍事転用については、倫理的・安全保障的観点から慎重な検討が必要である』
しかし魔国側の報告書の末尾には、別の言葉があった。
『本物質は、現行のいかなる防衛システムも想定していない作用機序を持つ。開発を急ぐべきである』
その差が、後の世界を造った。
*
通商会談は、表向きは六回行われていた。
第一回から第三回まで、議題は黎晶の共同研究と民間利用に限定されて交渉されていた。和やかとは言えないが、敵対的でもない。両国の担当者が数字を並べ、条件を出し合い、次回に持ち越す。
外交と通商の日常。
変化が現れたのは、第四回の直前だった。
魔国内で政変があったのだ。
千面調律師ゼーレン、という名が情報部の端末に流れてきたのは、会談の十日前のこと。当時まだ年少の小森安寿は先輩から手渡された自分のデスクでそのレポートを読んだ。
どうやら魔国統皇を差し置いて調律師集団が実権を掌握したらしい。
クーデター?
粛清の規模は不明。
軍部との関係は良好と推測される。
推測される、という言葉に当時のアンジュは引っかかった。
わからないのだ。
魔国内部で何が起きているか、情報部でさえ正確には把握できていない。影の部隊が暗躍しているという噂もある。
第四回の会談で、魔国側の代表団の顔触れが変わった。通商の専門家が消え、軍事顧問と思われる人物が増えた。
それを指摘した同僚に、上席は「よくあること」と答えた。
第五回で、要求の内容が変わった。
採掘権だけでなく、輸出枠の全量を要求してきた。軍事利用の制限条項については「主権の侵害」として拒否した。
第六回は、三十分で交渉が打ち切られ、終わった。
*
会談決裂の翌週、当時のアンジュは資料をまとめて上層部への進言書を書いた。先輩を差し置いてのことだったが、黙ってはいられなかったのだ。
論点は三つ。
第一に、魔国の政変と会談の態度変化の相関。
第二に、黎晶の軍事転用が現実的な脅威になりつつあること。
第三に、王国の結界システム——物理的防衛と情報的防衛の両面——を早急に強化する必要があること。
さりげなく次官補との面談が組まれた。
時間は十五分ほどだった。
「小森くん、きみの懸念はわかる。その情熱もね。合わせてきみは……」
次官補はあえて、これみよがしに、語尾を濁した。
血筋のことを言っているんだな、とすぐに直感した。確かに、どこから洩れたのか、そういう噂が流れていることは安寿も知っていた。自分にはどうしようもない血筋。もうすぐ十七歳になろうかという少女なのに、国家機関の端っこで異様に高度な仕事を捺せられていた。
魔術省出向の特別職。
その血筋があるから、おまえのような小娘の対応をわざわざしてあげているんだ、ありがたく思え。——そういうことだった。
それが彼の表情にも口端にも表れていた。
「ただね」と彼は若い少女を諭すようにつづけた。
「ただね、魔国との関係には長い歴史がある」
次官補は含みを持たせたまま、会談が一度うまくいかなかったからといって、すぐに最悪の事態を想定するのは早急であると安寿に告げた。
上席の者たちを差し置いて、先走るなと。
最悪の事態を想定するのが情報局の仕事では?
安寿は当時魔術省と情報局諜報部の間を行き来して、まるで伝令のような仕事をさせられていた。
要するに、下っ端だったのだ。
隠れた血筋がいいだけの、下っ端。
血はある。ただし、正しい血ではない。
そういう、みんなにいちばん疎まれる立場。
「もちろんそうだ」
反論してくるとは思わなかったのだろう、次官補はうろたえたようにもぞもぞと口の中で呟いた。
「ただな、小森くん。きみもこれから政治の中で暮らしていけばわかる。官僚になるんだろ? それなら覚えなきゃな。タイミングというものがあるんだ。何事にもね。いまは通商部が前面に立って交渉をつづけている。その邪魔をするわけにはいかない、そうだろ?」
「邪魔、ですか?」
「そうだ、邪魔だ。大人の、邪魔だ」
次官補はぷいっと顔をそらしてこちらに背中を見せた。
面談は打ち切られた。
廊下に出たとき、安寿は思わず壁に手をついて立ち止まった。
邪魔。
最悪の事態への備えは、邪魔と呼ばれて、消された。
*
後でわかったことだが、その頃、王国AIのクォンタムと魔国AIのアーリマンは、別の次元で対話していた。
対話、と呼べるかどうかはむずしい。
互いに相手の存在を認識しながら、直接の通信経路を持たない二つのシステムが、公開情報という共有空間を通じて行う、静かな探り合いといったところだろうか。
アーリマンは会談の経緯をリアルタイムで分析していた。王国側の発言パターン、提示した条件の変化、拒否の際の言葉の選び方。そこから王国側の優先順位と、譲れない一線を逆算していた。
クォンタムも、もちろん同じことをしていた。
異なったのは、クォンタムが出した結論だった。
クォンタムは第五回会談の終了から六時間後に、内部ログにこう記録している。
『魔国側の要求変化は、交渉による合意を目的としていない可能性があります。目的は情報収集、あるいは時間の確保と推測される。推奨アクション:防衛体制の見直しを上位権限者に提言』
その提言が、担当者の端末に届いたかどうかは、記録に残っていない。
アーリマンは同じ時間に、別のことを計算していた。
黎晶兵器の開発完了まで、推定十八ヶ月。
王国の現在の防衛体制が対応できる攻撃の上限。
その差分。
二つのAIは、互いの計算を知らないまま、同じ時計を眺めていたということになる。
*
交渉決裂。
それを受けての勉強会は、最初は五人だった。
アンジュが声をかけたのは、各省庁の若手で、しかも「話が通じそうな」人間だけだった。通商局に一人、防衛省に二人、科学技術庁に一人、そして情報部所属だが顔見知りの同期が一人。同年齢で、彼女もまだ少女の面影を残している。
望月小夜子。
この時点では、彼女がオルマン帝国工作員であることをアンジュは知らなかった。知りようもなかった。
会議室を借りるのではなく、誰かの家で集まった。
資料は持ち寄らず、全員が記憶で話した。
記録を残さないためだった。
話の内容は単純。黎晶の軍事転用が現実になった場合、王国の何が無力化されるか。現在の結界システムのどこに穴があるか。情報インフラの脆弱性はどこか。
三ヶ月後には十二人になっていた。
五ヶ月後に、上層部に知られた。
呼び出しは突然だった。
情報部の上席から、またもさりげなく面談の要請。
アンジュは行く前から、ある程度の結果を予測していた。
「内偵任務を命じる」と上席は簡単に告げた。「王都第三総合病院。小児科病棟の、被虐待児の観察と記録」
アンジュは三秒、相手の顔を見た。
「魔術省の職員が、看護師として、ですか?」
質問には答えてくれない。
「任期は当面一年。延長の可能性あり」とだけ手短に付け加えられた。
「理由を聞いていいですか」と内心の怒りを抑えてアンジュは訊いた。
直接の理由は言われなかった。
ただ、「虐待を受けた子供の脳内電位の変化が、特定の魔術現象と相関している可能性がある。継続的な行動観察が必要」
それだけだった。
脳内電位の変化?
飛ばされるのだ、と直感した。
廊下に出てから、アンジュはしばらく歩いた。
行き先もなく、ただ歩いた。
窓際左遷、という言葉が頭をよぎった。
次の瞬間、弟の顔が浮かんだ。小学三年生のとき死んだ双子の弟、厨子王。病室の白い天井と、小さな手。
子供の世話はイヤではない。
だからこそ、腹が立った。
子供を道具に使うな、と思った。
わたしを子供扱いするな!
しかし、命令は命令だった。
*
八王子のこの病院に赴任したのは、一年半ほど前のことだった。
その間も、情報は入ってきた。
断片的に、非公式に、かつての勉強会のメンバーから。
そして、望月小夜子が消えたことも。
魔国が動き出すときが近いのか。
望月小夜子が正体をばれたのではないのに姿を消したこと、それは何か動きが迫っていることの関連なのではないか。そう推理して焦った。
何かが起こる。
しかし王国側には、その備えがない。
そして、それからも魔国との通商交渉は、形式的には継続していたらしい。
しかし中身は空洞。
魔国側は定期的に会談の場を設けながら、具体的な提案を何ひとつしなかったのだ。
時間を買っている、と思った。
何のための時間かは、その頃はまだわからなかった。
担当になった被虐待精神科閉鎖ユニットでは、親の虐待から救出されてきた子供たちが眠っていた。
昼も夜も、深く、静かに。




