第五十三話 獣人兵 その2
屋上はすでに戦場というよりも残骸だった。
コンクリートの床には雷の焦げ跡が蜘蛛の巣のように走り、砕けた手すりの鉄筋が夜風にきしんでいる。
アンジュの呼吸も荒かった。
胸の奥で空気が焼ける。
自分のシャツをいきなり引き裂いてそれを両掌にぐるぐる巻く。
下着姿になる。
吸っても吸っても酸素が足りなかった。
ハア、
ハア、
ハア……。
肺の内側がざらざらしている。
舌に鉄の味が広がる。
血だ。
自分の血なのか、獣の血なのか、区別がつかない。
足元には狼型の獣人が倒れていた。
その首があり得ない角度に曲がり、毛皮が秘太刀のサンダーで焦げて煙を上げている。
猪型も横倒しになり、裂けた胴体から黒い血がゆっくり流れていた。
獣と人間の変成体。
遺伝子工学はすでにこういうものまで造り出している。
これをやれるのは魔国しかない。
やはりヨーラシア魔国だったのだ。
もう間違いない。
だが、闘いは終わったわけではなかった。
まだ一体、巨大なのが立っている。
今度は熊型。
(……疲れ果ててるのに、あんなの相手にするのかよ)
巨体がゆっくりとこちらに進んでくる。
すでに一撃しているから胸の中央に深い斬撃が走り、そこから黒い血が滲んでいる。
それでも倒れない。
普通の生き物ならとっくに死んでいる傷だ。
だがこの怪物は死なない。
筋肉が岩のように固く盛り上がり、呼吸のたびに胸が軋むように膨「ふく》らんでいる。呼吸が荒くなっている証拠だ。向こうもかなり消耗している。
鉄槌を持つ黒く毛むくじゃらの腕を持ち上げようとしている。
しかしその動きは遅い。
だが鉄槌は刀剣などとは質量が違うのだ。
あれが当たれば骨ごと潰れる。
(どうする?)
アンジュは響刀を構えた。
刀身の雷光はさっきより弱い。
魔力がもうほとんど残っていないのだ。
腕も重い。
肩の関節が軋む。
握力が落ちているのがおれにもわかる。
刀の柄が汗と獣の血で滑り、幾度も握り直す。
鞘を背中から取った。その紐を引きちぎった。
そしてそれを、刀を握った自分の右手にきつく巻く。
一端を口の歯で噛み、左手を使ってぐるぐる縛っていく。
熊型が歩き出した。
負傷していてあいつも動きが鈍い。
ドン。
一歩。
屋上の床がわずかに沈む。
ドン。
もう一歩。
鉄槌が肩まで持ち上がる。
アンジュは待ち構えるように体勢を低くした。
もう後ろには下がれない。
刀を背後に隠す。
唸り声と共に鉄槌が落ちてくる。
予想外に速い。
刃が走った。
一瞬遅れる。
振り下ろされた鉄槌の厚い刃をまともに刀身で受けてしまった。
ガキィーン!!
衝撃が背骨へと突き抜けていく。
視界が白くなる。
次の瞬間、鈍い音がした。
刀身が折れたのだ。
半分ほどの刃が、宙を回転してコンクリートに突き刺さる。
アンジュの手に残ったのは、短くなった刃だけ。
柄の先に、ギザギザの断面が見える。
雷の残光が消えかけている。
熊型の毛むくじゃらの顔がすぐ目の前にあった。
獣の荒い息。血と腐敗の匂い。
巨体のその眼が、折れた刀の柄を手にして茫然としているアンジュを上から見下ろしている。
「……終わりだよ、嬢ちゃん」
鉄槌が再び持ち上がった。
あいつも疲労している。
その瞬間、アンジュは走った。
驚くほどまっすぐに。
(どこ行くつもりだよ!)
コンクリートに突き刺さっている折れた刀を握り直した。
引き抜く。
もうそれは刀刃ではない。
ただの鋭い金属の棒だ。
なのにそれを熊型の胸の傷へ向かって投げた。
距離が一瞬で消えた。
刃先が熊の右脚に刺さる。
それを引き抜こうとする。
瞬時にアンジュは体ごとぶつかった。
刃先がない折れた刀の柄を血に濡れたまま熊の胸に突き立てる。
グイッ。
グリグリグリッ。
肉の奥へ金属が入っていく感触がおれにも伝わってくる。
筋肉を裂く音。
アンジュは歯を食いしばり、布を巻いた両手で握りしめている刀の柄に体重をかける。
熊が痛みで吠える。
その声が鼓膜を震わせる。
無闇に鉄槌が振られる。
体ごと全身で折れた刀を捩じ込む。
アンジュの肩を鉄槌の刃先が掠っていく。
骨がきしんだ。
視界が揺れる。
だが握った手を離さない。
刃先が折れているからまだ心臓に届いていない。
アンジュは衝撃に耐えてもう一歩、宙を蹴って下着姿の全身をあずけ、さらに踏み込む。
胸と胸がぶつかるほどの距離。
吹き出した血しぶきが顔にかかる。
それでも止めない。
熊の爪がアンジュの背中を引き裂く。
熱い痛みが背骨を走る。
それでも離さない。
折れた刀の柄を両手で握り、全体重をかけて刺す。
グリッ、グリッと捩じ込んでいく。
金属の刃先が肉の奥で回る。
熊の巨体が大きく震えた。
喉の奥から、哀しそうな低い断末魔が漏れてくる。
けれど、まだ倒れない。
筋肉が異様な力で刃を押し返してくる。
アンジュは荒く息を吐いた。
もう限界だ。
肺の空気をすべて吐き出す。
視界が暗くなる。
頭の奥で何かが鳴っている。
それでも折れた刀を離さない。
(もう一度だ、アンジュ、もう一度刺し込め!)
アンジュは体ごと捻った。
さらに深く、指も手も折れた刃ごとさらに深く押し込む。
(もっとだ! もっと刺し込め!)
おれたちは一瞬ひとつになった。
アンジュがおれでおれはアンジュになって刃を共に刺し込んだ。
グシャッという感触。
柔らかい袋が破れるように血が噴き出す。
アンジュの顔が鮮血で染まる。
それでもおれたちは止めない。
温かい血。
熱い血。
熊の全身が唐突に力を失っていく。
口からも血の泡が吹き出す。
巨体がぐらりと揺れる。
アンジュは狂ったようになって、まだ刃先を押し込んでいく。
分離した。
(……もういい。もういいんだ)とおれは告げた。
でもアンジュは止めない。
もう何も見えていない。
呼吸も絶えたそれを、アンジュは殺しつづける。
手の中の柄をただ握り続け何度も何度も捻る。
(もう終わったんだ)
(アンジュ、終わったんだよ)
そして———。
唐突な静寂が訪れた。
全身血まみれになったままアンジュは力尽きてその場に倒れる。
しかし両手はまだ柄を握っている。
怪物の巨体は前かがみに固まり、動かない。
いつ終わったのか、アンジュには分からないようだった。
肩で激しく息をし、全身が虚脱で震え、なぜか突然悲しくなって涙が溢れてくる。
気がつくと怪物は座したまますでに死んでいた。
震える手でその毛に触れる。
巨体がゆっくりと崩れ落ちていく。
重い音が夜に響く。
アンジュの全身が小刻みに震えている。
血で濡れた両手。
自分の血なのか、怪物の血なのか、それもわからない。
夜風が吹いていた。
獣との戦いは終わった。
——しかしおれらのほんとうの闘争は、まだ開かれたばかりだったのだ。




