第五十二話 獣人兵 その1
(……なんだよ、あいつら)
複数だった。
腐敗の臭気ではない。
獣の匂い。
湿った毛皮。
血。
鉄。
その大きな影を認めた瞬間、アンジュの躰が奇妙な反応を示した。
空気中に淡い粒子のようなものが舞いはじめたのだ。
コンビニ前で闘ったときはそんなのなかった。
(なんだよ、何がはじまるわけ?)
冷たい風にアンジュの黒く長い髪が揺れている。
暗い屋上の向こうに三つの巨大な影が降り立った。
「獣人兵。噂には聞いてたけど、初めて見た」
(ビースト?)
「魔国軍変性兵団の獣人兵」
意味不。
しかしアンジュがダウンを脱ぎ捨て白いシャツ姿になり、おもむろに刀を抜いたことで敵だとわかる。
こんなのが敵なわけ?
一体目の上体は、馬鹿でかいハスキーみたいだけど、あんなに可愛くない。獰猛そうな、でかい狼が人間の手足と合体したみたいな体躯をしている。
「狼型よ」
身長二メートルほど。
灰色の毛皮が肩から背にかけて逆立っている。
細長い顎。
金色に光る眼。
長い牙が口からはみ出している。
そして両手には、三日月型の戦斧。斧だ。
二体目は熊型。
三メートル近い巨体。
分厚い毛皮の下に岩のような筋肉が盛り上がり、腕の太さは人間の胴ほどある。
武器はおそろしくでかい鉄槌。無茶でかいハンマー。
そして三体目が猪型。
全身が装甲のような筋肉で覆われている。口から突き出た牙は二十センチ以上。
武器は長槍。
槍の穂先が異様に長くて刃が黒く腐食している。
(おいおい、こんなの聞いてないぞ)
「黙ってて」
(すいません)
狼型が低く唸る。
「亜種、確認」
獣の喉から、ごろごろした人語が漏れてくる。
ヨーラシア言葉なのにアンジュの耳にはそれが翻訳して聞こえる。そっか、イヤー翻訳が埋め込まれてるんだな、とあらためて気づいて変なとこに感心してしまった。
なかなかこちらも進んでいる。武士とか剣とかに眼を取られていると間違う。
「処理開始」
熊型がぼそっと告げた。
次の瞬間。
全員消えた。
「上!」
声がしてそちらを振り向くと、逃げてと言ったのにあの神社っ子の三浦明日香が身を小さくして屋上の隅で固まっている。
跳躍した狼型が上空から襲いかかってくる。
アンジュへ突進。
どうやらアンジュしか眼中にないようだ。
斧が交差し、首を狙ってくる。
アンジュの瞳が細くなる。口の中で何かを呟く。サンダーなんとかと言っている。
すると驚くべきことが生じた。
警備詰所で没収したあの刀が急に息をしはじめたみたいにブルッと震えたのだ、そしてその刃先に青白い小さな雷みたいな閃光が走った。
これが秘太刀?
キィーン!!
斧と刀が衝突する。
火花が同時に弾け、狼型が空中で回転して着地する。
屋上床に爪を食い込ませ摩擦で止まる。
「やるな」
面白いというようにニヤッと狼が笑う。
その瞬間、背後から轟音が迫った。
巨大な熊型が鉄槌を振り下ろしてくる。
アンジュは横跳びに避ける。
コンクリート床が粉砕されて弾ける。
鉄槌が再び振り上げられる。
「シールド!」
いきなりおれらの周囲を銀色の膜が包む。
(なんじゃこれ?)
鉄槌がその膜に叩き込まれる。衝撃が膜に吸収される。
熊の腕力は戦車並みだ。
アンジュはシールドごと歯を食いしばる。
「カウンター!」
吸収したエネルギーを変換したみたいに至近距離で爆発が起こった。
熊の胸に直撃。
思わぬ反撃だったのか巨体が昇降口の壁に叩きつけられる。
しかし倒れない。
毛皮の下の筋肉が衝撃を吸収しているのだ。
そのとき床が震えた。
「くらえ!」
猪型が槍を水平に構えて突撃してくる。コンクリートを蹴り砕きながら一直線に加速してくる。
「ファイアスパイラル!」
炎の螺旋が槍と衝突して食い止める。
爆炎。
しかし猪は止まらない。
槍先が炎を突き破る。
アンジュがそれを待っていたように刀を振る。
槍の柄を断ち切る。
えっ?という感じで猪が吠えまくる。牙を剥き、突進してくる。完全に怒らせてしまったのだ。
アンジュはそれを待っていたように回転しながら跳躍する。
空中へ。
狼がジャンプして追う。両手の斧が回転しながら迫る。
その瞬間、奇妙なことが生じた。
空間が歪曲したのだ。
(いま何した?)
狼の軌道が一瞬ずれる。
その隙に、アンジュが空中で回転してそのまま虚を突かれた狼の肩を斬った。毛皮が裂け、黒い血が飛ぶ。狼が躰ごと貯水槽の壁へ叩きつけられる。
「やっちゃえ! やっちゃえ!」
屋上の隅で固まったまま震えていた明日香の声が伝わってくる。
「黙ってる」
「はいっ」
*
魔術と刃。
それに獣人兵。
おれももう、何がなんだかわからなくなっていた。
魔力と腐敗と湿った獣臭が混じり合い、まるで巨大な胃袋の中に迷い込んだようだったのだ。
耳の奥がじんじんする。それはアンジュの耳だがおれ自身のそれのように感じる。おれはアンジュに完全に合体していた。アンジュがおれで、おれがアンジュなのだ。
空気が重い。
軽々とやっているようで実はアンジュもかなり体力を使っていることがおれにはわかる。これがいつまでつづくか。三匹もいるのだ。
息を吸い込むたびに肺の内側に細かな砂粒が擦れるような異和感がある。アンジュはゆっくり息を吐いた。
あらためて刃に魔力を流し込む。
刀身の表面に青白い雷の粒子が走り、空気の湿気を焼くような匂いが立ちのぼる。
「なるほど、おまえも魔術師か」
「看護服を着た魔術師とはな」
「コスプレ趣味とかあるのか?」
三匹で言いたい放題交わしている。
あんなのが三匹もいて、どうやってやり過ごすのか。リス野郎はいない。おれは背後霊。明日香は隅っこで震えている。
ひとりであいつらを相手にしなければならない。
髪が汗で頬に張りつき、皮膚の上を流れる汗が冷たい。
さっきの戦闘の余熱がまだ体の奥に残っている。筋肉はすでに軽く震えはじめていた。
だが止まれない。
止まれば、その瞬間に食われる。
「さて、お遊びはこれまでだ」
「いきますか」
「その白い肌、うまそうだな」
「可愛い子ちゃん、覚悟してね」
獣の呼吸。
湿った肺の奥で空気が泡立つ音。
アンジュが怒りに燃えて視線を上げた瞬間、
影が三つ、同時に動いた。
狼がまず上空から落ちるように飛びかかってくる。
異様に速い。灰色の毛皮が空気を裂き、双斧が首筋へ交差して振り下ろされる。
アンジュはほとんど反射で動いた。
握った刀を横に払う。
キィン、と硬質な金属音。
斧と刀がぶつかった衝撃が腕を通って肩まで跳ね上がる。
骨が鳴る。
狼は空中で全身をひねり、コンクリート床に四足の獣のように着地した。
その瞬間、背後の空気が震える。
熊。
三メートル近い巨体が鉄槌を振り上げている。
アンジュは横へ飛ぶ。
直後、鉄槌が床を叩き潰した。
衝撃が足裏を叩き、コンクリートが波紋のように割れる。
粉塵が肺に入り込み咳が出そうになる。
だが咳をすれば終わりだ。シールドが崩れる。
鉄槌が再び叩き込まれる。
衝撃が膜の内側で圧縮され全身の骨に鈍い振動が伝わる。
歯の奥が痛む。
膜の中に溜まるエネルギーが臨界に近づく。
アンジュは歯を食いしばる。
床が震えた。
猪が突進してくる。全身の筋肉が装甲のように膨れ、床板を踏み砕きながら一直線に迫ってくる。
肺が痛む。酸素が足りない。
けれどまだ体は動く。
炎の螺旋が槍とぶつかり、爆発した。
熱風が顔を叩く。
髪が焼ける匂い。
しかし猪は止まらない。
炎の中から槍が突き出てくる。
アンジュは交わして刀を振る。
槍の切先を寸前で交わす。
猪が牙を剥き、咆哮しながら体当たりしてくる。
衝突の瞬間、アンジュは細身のその体躯をひねり、回転した。
視界がぐるりと回って空中に浮いた瞬間、また別の気配が背中へ向けて迫ってくる。
狼!
二つの斧が回転しながら迫る。
(ヤバい!!!)
そのとき何かが投げ込まれた。
ん?
本?
明日香が立ち上がっていて、本を投げ込んでくる。
(なんだよ、あいつ?)
参考書?
虚を突かれた狼の軌道が一瞬だけ、ずれた。
そのわずかな狂いで狼の体勢が崩れる。
アンジュは回転の勢いのままその乱れた体躯に刀を振った。
刃が狼の肩を裂く。
毛皮が裂け、黒い血が霧のように飛ぶ。
フェンスへ吹き飛ぶ。
明日香が逃げる。
だがすぐに、ずり落ちたメガネを指先で押し上げながら起き上がる。
(あいつ、けっこう度胸ある)
狼はまだ致命傷ではない。
熊が巨体を寄せてくる。
猪も再び構える。
三匹が円を描くようにアンジュを取り囲む。
息が荒い。
胸が焼ける。
腕が重い。
筋肉の奥で乳酸が溜まり、わずかな震えが広がっている。
狼が走った。
猪が突進してくる。
熊が背後から鉄槌を振る。
三方向から同時に来る。
アンジュは一瞬だけ目を閉じた。
魔力を集中させる。
肺の奥の酸素を無理やり押し出し腹の底から力を引き上げる。
同時に刀が白い光を放った。
床が共鳴し無数の雷鎖が空間に広がる。
その鎖が狼の脚に絡む。
猪の体を貫く。
二匹の毛皮が焦げ、青白い稲妻が一瞬屋上を充たした。
傷ついた獣の叫びが耳を裂く。
アンジュは間をおかず跳躍した。
体力はもう半分以下だ。
おれにはわかる。
だがここで終わらせるしかない。
「秘太刀を使うよ。耐えてね」
刀に残った魔力をすべて流し込むつもりなのだ。
雷鎖が渦を巻く。
狼が飛び込んでくる。
一閃。
血しぶきと共に首が飛んだ。
猪も突っ込んでくる。
返す刀で二閃。
胴が裂けた。
熊が鉄槌を振り上げてくる。
三閃。
刃が胸を貫通した。
激しくショートしたような鋭い雷光が夜空に弾ける。
熊の巨体がゆっくり崩れていく。
だがまだ、その獣人兵は戦意を失っていない。




