第四話 鏡
「ズシくん、来たのね」とそれは告げてきた。「オメガが言ってた通り」
震えが来た。
でもおれの喉は震えていない。
動いているのは、鏡の中の女性の唇。
「ズシくん、来てるんでしょ? 背中がゾクゾクするから」
おれは咄嗟に自分の顔を探した。
鏡の中をくまなく何度も見た。
どこにもいない。
どこにもおれは映っていない。
代わりにそこにあるのは女の顔だけ。
泣き腫らした眼と、濡れた前髪。
長い髪。
チカッ、チカッ。
「来たのね。こちら側に」
おれは答えようとした。
声を出そうとした。
何も出ない。
口がない。
喉がない。
肉体がない。
あるのは、洗面台と、冷たい水の感触だけ。
「ズシくん、久し振りだね」
鏡の中から、それは重ねて小さく告げてきた。
ズシくんと、おれの名前を。
泣いていたのも、
吐いていたのも、
おれではなかったのだ。
生前の姉に似た女は、もう一度冷たい水で顔を洗った。
化粧が落ちるのも構わず、ごしごしと強く。
なぜかその感触が伝わってくる。
おれが洗ってるみたいに感じる。
それからゆっくりと顔を上げ、再び鏡を見た。
そして今度は小さく拳を固めて、謎の行動をしはじめた。
震える拳を鏡の表面に突きつけたのだ。
「絶対に、許せない」
おれに向かって言ってるのか?
それとも他の誰かに?
その声は静かだった。
なのに、声を放った瞬間、鏡が一瞬で粉々に砕け散ったのだ。
チカッ、チカッ。
点滅する光の中でその細かい破片がきらきら光りながら洗面台の上に散乱していく。
びっくりした。
なのにその女性は慌てていない。
破片は床にも散乱する。
女はそれを見下ろしたまま、小さく息を吐いた。
「見たでしょ? これが起こったことなのよ」
破壊。
徹底的な破壊。
誰に告げているのか、最初はわからなかった。
でもその声はおれの意識の真ん中に直接届いた。
「見たでしょ?」と。
姿はないのに意識はある?
「だから、あなたを召喚したの。いきなり呼ばれて戸惑ってるでしょうけど」
召喚?
そのとき初めておれはその言葉を聞いたのだった。
召喚した、と。




