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第四十六話 アンジュの身体

 とにかくサンプルを採取したことだけが成果だった。

 あとはどんどん量子崩壊していく。


 情報が錯綜《さくそう》していた。


 アンジュはあのあと病院のシャワーで身を清め(そのシーンはカットします)髪を乾かしてから普段着の黒いフーデイパーカーと黒のジーンズに着替えている。

 その下は黒のタートル。

 地味なのに超シック。


 (ただここでも実は、強烈なことを知ってしまっておれは混乱していたのだけれど)


 アンジュの体のことだった。

 肉体。

 服を着ているときはほとんどわからなかった。


 おれの視点は、アンジュの眼にほぼ限定される。

 だから、肉体といっても見えている部分は、ほぼ両手と足の部分だけ。

 アンジュは指輪もしてないし、爪もマニュキアしていず、たぶんやってるとしても向こうと同じように透明なやつだろうから、肌が白いという以外、ほとんどいままで意識をしたことがなかったのだ。


 ところが、シャワーを浴びられるとそうもいかない。

(解剖のあの血まみれの後だった)


 むろん、シャワーしたって視線はシャワーのお湯とか、髪を洗えば眼をつむってしまうわけで、実際にはほとんど見えないのだけど、やはりここでも鏡が魔物だった。


 鏡に映るのだ。


 ありていにいえば、普通のときにアンジュの手とか指を見ていて、なんつーか、ものすごく白くて透明な指先というか、ほんとに白磁みたいな滑らかさだなと感じていたそれが、シャワーを浴びているアンジュの(決して見ようとして見たわけではない、むしろ見えちゃった裸身の)その、異様なほどの白さと透明さだった。


 異様なほどの白さ。

 そしてアンジュには、これはいっていいか迷うのだけど、恥毛がなかった。頭髪以外に、ほとんど体毛というものがなかったのだ。

 ここでもまた、膜が剥がれた。

 何かどんどん露出してくる。

 ここでの現実が。

 変化が。


            *


 そんなアンジュは、がらんとした職員食堂に立つ。

 子供たちにとりあえず何か食べさせなければいけない。

 少し固くなっていたけどパンの耳を包丁で削ぎ落としてみんなが好きなジャムサンドにして、バナナも傷んでないとこだけを小さくカットした。

 そのバナナも、なんというか、おれが知ってるバナナと少し違うような気がする。


 なんか次第にこの世界の実像っぽいものが浮かび上がってくる。


 少し時間が経って、おれが落ち着いてきたせいもあるのだろうか。

 そういえば、コンビニのおにぎりもビミョーに変だった。

(自分で食べられればもっと何かわかるかもなのだが、なにせ口も胃もないものですから)


 おれは次第に、背後幽霊である自分に開き直りはじめていた。


「おいしい?」とアンジュは優しくサヤカに訊いている。

「うん」

 ほとんど無口だったサヤカまで微かに声を出して小さくうなずいてくれたことだけが救いだった。


 学生二人も降りて来て、一度アパートや実家に帰るかもと言っている。


 それでふと我に返った。

(おれにはもう実家はない)

(帰るべき世界もない)

 おまけにこっちでは、どうやら日本もなくなってしまった。


(笑うしかねえだろ?)


            *


 脳だったのだ。


 死んだといってもまだ形状をそのまま保っているはずの脳が、まるで内側から破壊されたみたいにミンチ状にどろどろになってしまっていた。

 脳のあの独特の形状が跡形もなくなくなっていたのだ。


 そこには赤いどろどろしたヨーグルトというか、大量の塩辛のようなものが頭蓋骨という容器に盛られているみたいになっていただけだった。


 最後の一体はうまく割れたから、内容にはまったく手を付けていない。


 これはいったい何を意味するのか?

 吐きそうになっても、あのときアンジュが開いていく様子を学生二人が震える手で両サイドからスマフォで撮影していて、ともかくそれを共有した。誰かこの現象に心当たりがあるひとが広い世界の中にいるかもしれないからだ。


 あのあと医局に戻るとパソコンが眼についた。同じような感じだがどれにもあの王国マークが付いている。

 アンジュはふと気づいたようにその周辺のデスクを探った。

「何してるんすか?」と内田くん。

「USB」

 念のためにUSBに保存しておけばスマフォが壊れても映像は残せる。

 そしてそれを短く編集してSNSにアップして世界中に拡散してくれるように頼んだ。実情を知ってもらうために。


 頭部。

 おれはこの前(死んじまう前のことだけど)こんなことになるとは露《つゆ》知らず、気分直しというか、クリスマス向けに、デートの約束とかもないのに、美容院に行って髪をマッシュにしてもらったのだ。

 ほんとは短髪のほうが看護師はいいのだけど、辞めようと考えていたし、もういいかぁみたいな感じになっていた。辞めるとその方角に完全に向いちゃってたから髪を伸ばしはじめ、トリートメントしてサラサラマッシュにしてもらっていた。


 マッシュ。

 マッシュルームのマッシュ。


 すると、「あら、小森くんお洒落」とかお局様《つぼねさま》にもヨイショされ、「なーんかマッシュ? そのキノコ髪のほうが小森くんカワイイわよぉ」


 早速オバハンたちからいじられた。


「そうっすか?」悪い気はしない。


 せっかく資格は取りつつあったけど、もうこんな過酷な労働やめてショップとか、「すごく背が高くて、軽くウエーブ掛けてマッシュにしたらなんかモテそ」とか、モテ期到来という感じで言われてたし、勝手に妄想してしまって、それでけっこう気分が良くなった自慢の髪型だったのだ。


 だからまあ、はるばるパラレルジャンプしてこんな世界まで来たわけだし、転送されてる間に「より洗練されて」、BTSとか、韓流の肩幅がっしりイケメンとか、三日目満期して実体化したらそうなるかもなあ。


(そしたらおれ、超イケメン無双勇者とかじゃね?)


 もうヤケクソでそう思うしかないところに、マッシュの髪の下にある頭蓋、その中にあるはずの脳の問題が出てきたのだった。


 脳がこんなにグチャグチャになってたら、そりゃ即死だよなと。




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