第四十五話 好血暗黒女子
とにかくそうして御遺体から採取したものを、アンジュはサンプルケースに、念のために三つに分けて収納した。
持ち運びができる携帯用の冷蔵保存ケースにしまう。
そしてそれを、冬だったけどそのまま大型の採血などで使う冷蔵庫に保管したのだった。
【保存しました〜】
【これより第二段階に入ります】
……そのはずだったのだ。
*
匂ってくる。
どこからか、しきりに匂ってくる。
病院全体の御遺体はそのままなのだから。
そして考えてみれば、日本列島全体がそうなのだ。
あの時刻にほとんどの国民が眠っていたのだから。
*
真冬。
もうすぐ正月になる。
病理解剖は年間で二万件もやられているようで、そのデータは剖検輯報とかいう学会誌に載るらしいのだけれど、「どうします?」と病理の学生二人に訊かれた。
変なことにこだわっている。
もう学会なんて霧消してしまったというのに。
通常感覚がまだリセットできないのだ。
おれもそうだけど、つい以前の感覚で考えてしまう。
「あ、そっかあ、全部リセットされちゃってるのか」
アンジュは、やむおえず傷つけてしまった御遺体を、本来なら火葬にするなり慰霊しなければいけないのに、どうしようもなく死体袋に入れて安置所に収納したままになっていることのほうが気になっているようだった。
「傷つけてしまったから」
(死んでるんだから仕方ないよ)
「でも」
霊であるおれが慰めなきゃならない状況になってしまった。
密室に強引に足を踏み入れたところ、その中はまったく予想もしていなかった状態だったのだ。
予想外。
それはかすみさんのことも同じだった。
「……ダメなんですよお、ほんとにダメなんです、……そういうの」
一瞬の卒倒から目覚めても興奮冷めやらず、
自分の豊満ボディを抱くようにして震えながら、
時折こちらに、
急に細い手を差し伸べてきたりしている。
ベロンベロンに酔っ払ったまま。
ヴァイキング酒を全部呑んでしまったのだ。
なにがなんだかわからない状態。
「ヒヤッハァアアア!!!!!」
あのとき解剖室に彼女の咆哮が響いた。
「……血、……血、……血だらけ」
荒く息を吐いて恍惚の表情を浮かべ、
ベロベロに酔っ払って酒臭い息を吐きながら、
かすみさんはその場に卒倒してしまった。
それからの大混乱。
「……ダメなんですぅ」
そう呟いている表情は、恐怖とか嫌悪ではなく、なんか天使が降臨してくるのを仰ぎ見ているような、法悦そのものの歓喜に満ち溢れているのがよくわからない。
あのハーフエルフかすみさんの表情が。
イケナイことをしている快感、とでもいうのだのろうか。
イヤだ、ダメだと口走ってるのに、表情は違うのだ。
わけがわからない。
身悶えして歓びに打ち震えている。
そうとしか見えない。
キモいとか、
グロいとかじゃなく、
歓喜に狂喜乱舞して、
ベロンベロンの法悦状態になっている。
「もう、どうしようもなくなっちゃうんですよお」
全身を揺らして打ち震えながらそう叫ぶように口走っている。
「そういう血? 汚濁? なんか隠されていたものっていうか……、そういうのが、どーっと、どばーっと、いきなり現れて押し寄せて来られると、もう、なんというか、ゾクゾクしちゃって……。三百年前からそうなんですぅ」
エルフって、こういう趣味あったの?
まさか。
「わたし、ずっと悩んでたんですよぉ。ほんとはエルフじゃなくて吸血鬼なんじゃないかって」
*
「そうなんですよお!!!」
「もうゾクゾクしちゃって、立ってられなくなっちゃって、……だから看護採血のときも、ほんとに自分を抑えていたんですけど、……なんていうか、はずしちゃうじゃないですかぁ、血管が薄かったり細かったりして、なかなか針が通らなくて……そうするとプチュって、出てくるでしょ?」
「もうあれだけでダメだったんですよお、ほんとは」
弓をブンブン振り回しながらそう言ってる。
「……看護師失格だったんですぅ」
「体の底からゾクゾクしちゃって」
「ほんとわたし、エルフじゃなくて吸血鬼の末裔じゃないかって、ひそかに悩んでたんですぅ」
「ほんとにほんとに」と両脚をもじゃもじゃさせながら繰り返している。
血だらけゴーグルをクールにはずしているアンジュの腕に取りすがるようにして。
あのときはまさにそうだったのだ。
かすみさんを慌てて抱き起こしたとき。
そのときおれは、アンジュを通して奇妙な感触を得た。
なんか、膜が一枚剥がれたような、新たなヒリヒリ感がそこに芽生えたのだ。
初めてかすみさんに触れたからではない。
もちろんそれもあるかもだけど、それだけではなかった。
もちろんいままで感じるようなことはあったけど、それはアンジュを通してみたいなものだった。それが、かすみさんがほんとに困惑していて自分でもどうしようもないような混乱の中で手を差し伸べてきたとき、その手を(おれは霊なんだから本来ならスルーしてしまうはずなのに)受け止めるというか、ダイレクトに感じられたのだった。
かすみさんは酔っ払ってるけどほんとに困ってる。
悩んでる。
口から出てくる言葉は、失笑するしかないようなトンデモだけど。
ほんとに、深刻に悩んでいるのだ。
「尊敬しちゃいますぅ! こんなことできるなんてすごいですぅ!」
ルビーのようなお花眼になって、輝くような眼差しで、アンジュをキラキラ見上げている。
キャラ崩壊。
全量子崩壊。
おれだってどうしていいかわからなかった。
好血暗黒女子?
おれが研修で見そめたあのかすみさんが、あの可憐な岩井かすみさんが、こちらでは三百年生きたハーフエルフで、しかも好血暗黒ベロベロ女子だったなんて。。。
どんどん印象が上書きされていく。
もう、知らなかった以前には戻れない。
向こうでのおれれがどんなに無知だったか思い知らされた。
(おれは、そんなかすみさんを愛せるのか?)
(まるごと恋せるのか?)
真剣に思った。
周りは死体だらけなのに、
真剣に、誠実に、思った。
*
———そうしてともかく、おれらは解剖をなんとか終えたのだった。
これがカオスでなくてなんだろう?
脳が内側から破壊されていた。
何かの力によって。
地雷で爆破されたみたいになっていた。
わかってみると、もう何がなんだかわからず、やれやれだなとしか言えない。
でも何か、パンドラの箱の蓋が開いてしまったような、奇妙なことがそれから連続したのだ。
変化。
まず最初にそれは、あの受験生の明日香からもたらされた。
息抜きに再び上がった屋上の薄闇の中で、いきなり話しかけられたのだ。かすみさんの変貌に戸惑い、アンジュをひとりの女性として見るしかなくなったときに。
アンジュではない何かに、おれは話しかけられたのだった。
「呪いと祝いって、同じ語源なんですよ」と。
「は?」
「どちらも神様に宣言することが語源なんです。その言葉がね、相手の不幸を願えば『呪い』になり、幸福を願えば『祝い』になります」
「………」
「その二つの言葉に共通する『兄』という字。それは、言葉を発するひとの『口』を表してるんです。言葉。それが不幸を思えば呪い、幸福を願えば祝い」
「誰だ?」
薄闇の向こうの屋上の端に立ってこちらを見ているのは、あの明日香という小柄なメガネっ子だけだった。
彼女がこんなこと言うわけない。
(夜だってのに、参考書まで離さずに持ってきてどうするつもりなんだよ)
そう思ってるとまた、薄闇の中に引っ込んでしまった。
呪いは祝い。
祝いは呪い。




