第四十四話 血まみれ
外科医のガリバーが放浪する「ガリバー旅行記」は四つの国を訪れる。
ひとつ目は小人の国。
身長が十五センチぐらいしかない小人の国のリリパット。
で、二つ目が身長二十メートルを越える巨人の国、ブロブディンナンディグ。
三番目が空飛ぶ島ラピュタ。ジブリで有名な「天空の城ラピュタ」のあのラピュタだ。
そして最後にヤフーが跋扈する馬の国。
*
頭蓋のカットの仕方なんて、いくらネットでも載っているはずがないのに二人はしきりに検索している。
「なんかヒットしました?」
「おまえは?」
「どうも調子悪いんすよ、三日ぐらい前からwi―fi拾わなくなっちゃって」
内田が自分のスマフォをいじりながらそう呟いている。
通信環境技術は同じなのかも。
ちょっと安心した。
もしかすると物理とか化学はどんな世界にジャンプしても共通なのかもしれない。同じ宇宙にあるんだからな。
「おまえんとこ超カネ持ちなんだからさ、プロとか買ってもらえばいいじゃん」
「なーんかイヤなんすよね」
「なにが?」
「家に頼るの」
ツーブロックとロン毛の対話。
彼らはまだこの世界がどうなったのか、現実感がないのがありありだった。
関係ないことぐじゃぐじゃ言っていて、要するに二人ともやりたくない。
だから、仕方がない、それもアンジュがやることになった。
「マジで?」
「ほんとにマジで? やっちゃうんすか?」
大袈裟に、なおかつ超薄気味悪いものを眺めるみたいに、こちらを二人してガン見している。
おれはアンジュの大胆さに驚いていた。
薄いゴム手をぱちんとはめて、執刀の道具を早くも点検しているのだ。
*
さすがに初めは震えた。
幽霊やめようかと思うぐらいのグロさ。
スーパーのガラスの向こうの、肉部門とか魚のとこでよくやっているように大根の皮を剥く要領でいいのだとアンジュは自分に言い聞かせるみたいに刃を入れている。
失敗した。
包丁に比べてすごく切れるのだ。
スッと抵抗もなく刃先が入ってしまう。
緊張からか、どうしても力を入れすぎてしまうのだった。御遺体は男性だったが薄い頭頂部が玉ねぎの皮を切るよりも、ほとんど手応えなく入っていってしまって、ざっくり深掘りしてしまった。
「ヤバくないっすかあ」
「ヤバヤバ」
腰が完全に引けてるのに学生二人は口だけ動かしている。
「なんだか……」
「何よ」
アンジュがうるさいというように口を開く。
先がバターナイフみたいな形の円刃刀を握っているこちらを、二人は羨望の眼差しで眺めている。
すでに時間が経っているから人体内部の血も凝固しはじめていた。
そしてあの、複雑な計算式の断片のような死斑。
亡くなってまだ丸二日も経っていないのに、何かの呪いをかけられたみたいに、かなりはっきりと浮き出しはじめている。
生きるのをやめると、血は徐々に黒くなる。
この御遺体の場合はその手前の緑色。
つまり血液も腐りかかっているということだ。
その腐った血が、まるでコーンポタージュみたいに円刃刀の先からこぼれ、ぽたぽたリノリュームの床に垂れていく。
(簡単に人間を切れる)
その感覚におれは慄いた。
アンジュも一瞬ひるんだ。
それで姉貴も、ほんとうにはまだ実際に人間を斬ったことがないのだとわかった。
それはまあ、そうだろうと思う。
向こうの江戸時代だって、実際には刃物沙汰なんてほとんどなく、あの日本刀だって、中身はアルミどころか竹だったらしいから。
でもこれからは、どうなるかわからない。
手の中で円刃刀がワサワサしている。
しっかり握り締める。
「軽く、軽く、指の腹で持つようにして」
アンジュもさすがに緊張している。
持ち直す。
「そう、その要領」
自分で自分を励ます。
皮膚を開く。
わずかにある肉を取り除くのは、アジとかサンマとかを三枚におろす要領で、プロが見たら稚拙なのだろうけど、考えたより簡単に削げ《そ》げていく。
ゴーグルを拭いた。
急がなければならなかった。
遺体はどんどん腐っていく。
時間が経っているためか、滞留して腐りかけた血がどろっと溢れてきてそれが鼻血みたいに落ちていくのだけれど、魚を開くときだって内蔵まで取り出すのだからそのほうがよほどグロい。
でも問題は、その下に現れた頭蓋だったのだ。
骨は時間がいくら経過したって硬いままだ。
頭蓋を開くなんて実習、まだやったことがないと二人は震えながら言う。
*
トンカチとタガネでぶっ叩いたら破壊してしまうだけだから、特殊な電動回転ノコみたいなやつが必要だった。
それで切れ目を入れ中身を傷付けないようにして開く。
「パカッと開くのね?」
「そうっす! そうっす!」
もはや二人はこちらを畏敬の念で眺めていて、同時に激しく壁際に避難したままうなずいてくる。
ビデオ実習で一度だけ見たことがあるというツーブロック佐山の記憶を頼りにするしかなかった。
遺体を損壊するのだから遺族の方たちの了解が必要なはずだがその遺族とは連絡が取れない。
「やりましょ」とアンジュ姉さんはマスク越しに静かに告げた。
電動機械が保管されているという用具棚の鍵を壊すように頼む。
鍵を探している暇はない。
「いいんすか?」
答えるまでもなかった。
ウーーンという電動音。
ほとんど小型のチェーンソウだ。
こっちではどうやらそんなんで頭蓋に刃を入れるらしい。
……ギギギギ。
刃が軽く鉄を切るみたいにして骨の中に入っていく。
ブチュッ。
やたらに汗が流れた。
「ウワッ、ワッ、ワッ」
観客の二人は同時に恐怖の声を上げている。
やってるのはこっちなんですけど。
ギギギギギ。
ベチャ。
最初の二体は失敗した。
グロい血が刃の回転で飛び散るばかり。
もうほんとにアンジュの白い肌は血まみれだった。
それでもやめない。
学生二人は完全にビビってしまってさらに背後の壁にヤモリみたいに貼りついている。
骨を切り過ぎて高速回転する刃が中に入ってしまい、脳が飛散する。
ゴーグルの前が見えなくなるほど汚れてしまう。
アンジュの全身は血と汗と汚物でぐしょぐしょになっている。
「サンプル取るからカップ」
「あっ、用意してなかった!」
「早く、急いで」
——そこに、かすみさんがひょっこり現れたのだ。
あのかすみさんが、
ナース服の前をはだけた乱れた姿で、
何やら酒臭い匂いを盛大に撒き散らしながら、
「ウフフ、隠れて何してるんですかぁ?」と。




