第四十二話 混乱
時間の感覚が混乱してしまっている。
カオスに次ぐカオスだったのだ。
負け犬の遠吠えにならないように、アンジュたちは証拠となるものを探し求めた。
その結果が大混乱。
そして数時間後の深夜——。
アンジュを含めて全員が脱力して再び屋上に来ていた。
解剖にまつわる混乱は、カオス以上のものだった。
そうして全員が時間の観念を喪失して、気がついたら屋上に立っていた。
*
何をやったのか。
ほんとに解剖したのだ。
眼の前の証拠を。エビデンスを。
幾体も。
そして……。
アンジュは疲れ果て、
背後に憑き添っていたおれも疲れ果て、
かすみさんもあんなになってしまって疲れ果て、
学生たちも恐怖で疲れ果て、
もう何に八つ当たりしていいのかわからなくなっていた。
解剖の顛末のために。
密室殺人事件だと足を踏み入れたら、そこにはカオスが待っていた。
そんな感じだったのだ。
*
「……いったい、……どういうことなの?」
脳の状態に茫然と立ち尽くしているアンジュがふと気が付くと、少し離れた屋上の端に小柄な影が立っていた。
鹿子明日香だった。
丸眼鏡の金属フレームが月明かりに微かに光っている。
「息苦しくなっちゃって」
そう呟くように言っているが、それ以上近づいてくる気配はない。
「勉強は済んだの?」とアンジュは息抜きしながらたずねた。
「やらなきゃならないことがどんどん出てきて焦ってます」
朝食はトーストにイチゴジャムでした、みたいな感じでぼそっと言う。
無表情レベル既定値、
レンズの奥の瞳、低電力モード。
眼にも唇にもほとんど何の表情も浮かんでいない。
たぶんこれがデフォルトなのだろう。
「そうなんだ」
アンジュもぼんやりと上の空で、いちおううなずいている。
こんな状態になったら当然入試なんて中止というか、高校も大学も解散なはずなのに、彼女はずっと受験勉強をやめない。親が死んだりして気が触れたのかとも思ったが、そんな感じでもない。
「火事ですね」ぼそっと呟く。
「燃え広がっているみたい」
「この病院にも火を点けますか?」
おいおい。
「どうして?」
「火葬」
丸ごと焼く気なのだ。
「……まだ決まってないの」
確かに、あんなに多数の死者を埋葬するなんてできない。もし供養するなら病院ごと焼いてあげるしかない。
それはわかるけれども。
解剖でこちらはヒィヒィ言ってるのに、この子はもう先の先を考えてる。
「火を点けるんだったら、わたしにやらせてくださいね。祈祷しますから」
小柄な体の冬セーラー服姿でクールに告げてくる。
どうやら状況はきちんと把握できているらしい。
「制服だけじゃ寒くない?」
「別に」
こいつ、唯一に近い生存者で、おまけに家族全員が死んでる状況で、学校行くみたいにセーラー服着てきたのかよ。起きたときはパジャマだっただろうから、明らかにそれをチョイスしたのだ。向こうより古典的な、いかにもというセーラー服を。
「あなたのおうちは?」
アンジュが話題を変えて訊いている。
「あそこです」
指差す先に赤い鳥居とまっすぐ直立した何本かの杉の大樹が見えた。
「神社なの?」
「いちおう」
それだけ告げると大きく伸びをして指先で丸メガネを押し上げ、そのまま端っこに行ってしまった。
変わった神社の子だった。
*
女性たち。
サヤカはそうではなかった。
星さえ知らされずに親の密室空間で過ごすしかなかった。
「もしかして、サヤカは星のことを知らない?」
アンジュはふと夜空の中でそう思い至った。
ここに、(というか向こうではそうだったけど)移送されて来てからは閉鎖ユニットでずっと暮らしていたし、救出される前に暮らしていた環境があのようなものだったのから。
夜空を眺めてそこに無数に煌「きら》めいている星のことを、母親かそのボーイフレンドとかいう奴らが教えてくれたときがあったとは思えない。
昼間は厚い雲に覆われていたのに、その雲が少しなくなって星空が見えている。
雲の動きが速い。
それだけ相手の飛行船も速くなるということだ。電動ハイブリッドだけど大型の輸送飛行船だったら、もう来ているはずなのに、ドローン輸送のあの環のような黒い飛行物しか確認できない。
なぜ?とアンジュは、解剖にまつわる脱力のまま、星空を仰ぎながら考えている。
これだけ壊滅的な打撃を与えていながら、なぜいまだに偵察だけなのか。あの群体ドローンだって、その一貫だろう。魔国とバレているのに、なぜ陸上部隊なり空挺部隊が進軍してこないのか。
AIアーリマンが躊躇っている?
ありえない。
それともオルマンのAIイシスを意識してるのだろうか?
神々の戦いみたいに。
そう、これは神々の戦いでもあるのだ。
「……どうやら、わたしは負けたようです」
負け犬の遠吠えと告げてきたとき、王国AIのクオンタムは自嘲するように呟いていた。
負けたようです、と。
*
クオンタムも負けを認めている。
投了したのだ。ギブアップ。
AIでさえそうなったことにアンジュはショックを受けていた。
「初めて?」
頭を振り、気を変えるようにして空を見上げ、
どんな国であったとしても、自分の国が滅亡しつつあることに涙が溢れるのを我慢しながら、アンジュはサヤカの頭を優しく撫でながらたずねた。
星空のことだった。
うっとりと夜空を見上げながらサヤカはうなずいている。
「あれがシリウス」
どの星よりも明るく輝いているおおいぬ座のシリウスを教えた。わたしたちが暮らしているこの星なんて、宇宙の広さから比べたら埃よりも小さいとか言ったってサヤカにはわかるはずもない。
そういう夜空を見上げているうちに、星をめぐる有名な話をふと思い出した。
「わたしたちは等しく、星の子だという」、あの話。
「……星が大好きで、空をいつも見上げていた弟が、何かの本に書いてあったと教えてくれたの」
こっちの弟のことだ。
おれはそんなロマンティストではない。
『わたしたちは星の子。遺伝子の中の窒素も、歯の中のカルシウムも、血液中の鉄分も、かつてあった恒星の内部で作られたもの。わたしたちの肉体は、すべて星が爆発したときに飛散した物質でできている。わたしたちは、きわめて深い意味において、星の子なのだ』
有名な言葉らしい。
まあ、そういうことは、いくらパラレルだろうとなんだろうと同じ宇宙なんだから共通なのかもな、とおれは考えるしかなかった。
器は同じなのだから。
「サヤカもね、そういう星の子なんだよ。わたしもね」
おれも?
いっときの休息。
休息を取るしかなかったのだ。
あの大混乱の後では。




