第三十九話 負け犬の遠吠え
女性は強い。
アンジュはサヤカを引き寄せて抱っこする。
倉田ママもマスコを抱っこして屋上に来ている。
こういう人間関係のどこにも火薬なんて必要ないのに、それがすべてをぶち壊すように存在しているのが自然だ。おれは自分なりに化学実験とかしてみてわかった。
自然は人間のことなど知ったこっちゃない。
順列組み合わせでどのようにも変化する。
だから———。
綺麗だということが、どういうことか。
優しいということが、どういうことなのか。
そういうものは、
人間の中だけにある。
守らなければ、それは失われる。
変化していってしまう。
サヤカの母親のように。
サヤカのおかっぱ頭が揺れている。
額の焼痕が一瞬現れて隠される。
サヤカの母親の養父とかいうヒモだった奴は、酔うと面白がって顔にまで煙草の火を押し付けたのだ。当時赤ん坊だったこの子の額に。
それをサヤカの母親は止めなかった。
止めたと裁判では証言したらしいけど、体を張って止めたのかどうかはわからない。
自分の産んだ子が泣き叫んでいるのに、見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。
それも含めて暴力ということ。
人間の中だけにある。
重過ぎるといったって、おれはそういう重さにあのときまで接していたのだ。
こちらではいま、アンジュが接している。
おれはようやく、その二世界に渡るサヤカに接して、あることに気付いたのだ。
周囲のことが微妙に、大幅に変わっているのに、サヤカだけは不動だということ。
変わっていない。
向こうのときのままだ。
こっちでは色々なことが変わっているのだから、因果的にサヤカだって被害程度とか、焼け焦げの数とか、親がどうたらボーイフレンドがどうたらだって変わってるはずなのに、変わっていない。
不動なのだ。
まるで、特異点のように。
暴力の本質を示すように。
*
「国際社会に訴えるには?」
アンジュがAIに訊いている。
同じ環太平洋王国内の西界州連合アメリコは無傷だし、南米も無傷でいるはずだ。それに、第三極であるアラブアフリカのオルマン帝国が黙っているはずがない。すでにあのような銀虫を送り込んで来ているのだから。
「どうしたらいいと思う?」
気を取り直して、サヤカのおかっぱ頭を撫でながら、アンジュはそうAIにたずねた。
「証拠がいります」
シンプル過ぎる答え。
「証拠です」とAI女性は重ねて告げた。「それも決定的なものが幾つも必要となります。おそらくすでに裏で根回しが済んでいると思われますので、決定的なエビデンスが複数必要となります」
「なければ?」
「負け犬の遠吠え」




