第三十三話 生きるべきか死ぬべきか その1
VIPルーム国防次官の脳をサンプル抽出していた銀蝿線虫のリーダーみたいな大きな蝿が、サンプル抽出を終えたのか、こちらの動きなど無視するように、ブーンと開け放たれた窓の向こうに飛び去ろうとしている。
ブーンという超微かに伝わってきていた低奏音の正体はこいつら?
それを追おうとした老医師の木村を、アンジュは止めたのだ。
なぜ?という感じで木村はちょんまげ姿のままこちらを振り返っている。
「いいの、むしろオルマンには状況を知らせたほうがいい」
何が起こっているのか、世界に知らせるのだという。
この王国の、日本の状態を。
「もう、隠したって隠し切れない。これは明らかに侵略なのよ。この大量死はその手はじめ。作業部隊もいずれ来る」
疲れた感じだけど、アンジュの声は凛としていた。
すでに何かを決意したものの声だった。
*
「……ズシくん、だいたいわかったでしょう? おそらくこれから戦争がはじまる。心理戦、情報戦。もちろん魔術をめぐる戦いもある。……そんなとこに、わたしはあなたを召喚しなければならなかった。パラレル宇宙に無数にいるズシくんの中の、あなたをね」
(無数にいる、おれ?)
「もうすぐ理由はわかると思う。召喚した理由がね」
そこでアンジュは、情報収集して逃げ出していった蝿クローンを追うように、ひたひたと床や壁を銀色に染めながら窓外へと這っていく銀髪みたいな奇妙な機械線虫どもを横眼にしながら、宣告してきたのだ。
ポイント・オブ・ノーリターンと。
「ポイント・オブ・ノーリターン。この先へ行ったらもう戻れない。いま、あなたはそこにいる」
(わかるのか?)
「実体化の程度でね。そう教えられてる」
実体化。
(戻ろうと思えば、戻れるのか?)
「とどまってほしいけど、一方的だったらフェアじゃない。そうでしょう?」
(まあね)
「だからいま、状況をすべて示して、こうして魔国に侵略されてるだけじゃなく、オスマン帝国にもあんな偵察隊を送り込まれてる。もうボロボロ。それをつぶさに見てもらったの」
(……そういうことか)
「どうだった? サヤカがいてマスコもいて、同じ病院という形だけど、かなり違うでしょ? 召喚が完了すれば、あなたはこちらの住人になる。わたしの双子の弟としてね。量子もつれから分離する」
なんとなくわかってきた。
「でもね、これには意志がいるの。しっかりとした意志がね。木偶の坊では駄目なのよ。しっかりした意志と決意が必要なの」
(なぜ?)
「これから魔法を習得しなければいけないから」
(魔法を? 魔術じゃなくて?)
「魔法よ。魔法と魔術は違う。魔術師はいるけど魔法師はいない。なぜだと思う?」
(……さあね)
「こんな状態になって、こんな少人数になって、何ができるんだと思うかもだけど、魔法を習得できれば、それが可能になるかもしれないのよ。魔法は、法を変えられるの。宇宙の法を。物理法則自体を」
(最終兵器、ってわけ?)
おれは、兵器になるために召喚されたのか。
「ごめんね。ほんとに迷惑かもしれない」
(迷惑です)
「わたしとオメガがあなたを召喚したんだけど、まだ実体化はしていない。……だから、あなたがイヤなら、……いまなら間に合う」
(転送を中止できるってこと?)
「そう、召喚を中止できる」
*
「ズシくんが事故った元の世界。情報によると、職務中の事故ということで労災も出てて、病院葬がささやかに行われようとしている。明後日が、亡くなって三日目だからね」
(……やっぱ、死んでるわけか)
「そう、残念ながらそれはもう戻せない。事故だったの。警報装置の誤作動。あのときその事故で慌ててしまって、たまたま死んでしまったのが、あなたなのよ」
(……慌ててしまって)
(あのとき、かすみさんにいいとこ見せようとして)
(蹴躓いて)
(……つまりおれは、おれはよ、「正しい死に様」ではなかったわけだな……、虎杖さん)
(カッコつけてんじゃねえの)
さまざまな思いが湧き出てくる。
「な……あ」
「何?」
「おれは必要とされてるのか?」
アンジュが微かにうなずく。
おれはこの世界に必要とされてる。
「仕組んだわけではないの」
アンジュは言っている。「それは信じて。なかなかわからないと思うけど、数兆以上、数え切れないぐらいの並行世界があると、その中のどれかで、たまたま亡くなってしまう者が出るらしいの」
(それはリス野郎も言ってたよ。でもなぜ死んじゃわなきゃいけないんだ?)
カリカリ
カリカリ。
リス野郎が登場した。
「ああなりたい、こうなりたい、ああだったら、もしこうだったら……。可能世界の『全体自分』はでシね、ある意味、死によってしか完結しないんでシよ」
いきなりリス野郎が無塩ナッツ頬張りながら、ひょいと顔を出して、むずいことを博士みたいにくっちゃべりはじめた。
「完結するとは死、死とは閉じることでシからね」と。
(……)
「ジ、エンド。
でも生きてる限りは開きつづける。
可能性に向かって。
生きてるってことはそういうことなんでシ。
だから開集合。
細胞的にだって開かれてる。空気を吸って食物取り入れて、いろんな体験をする。それは外に向かって開かれてるから。でも死んじゃうとそれが閉じる」
わかったようなわからないことを言っている。
「生き方だってそうでシょ。生きているあなたは、次の瞬間に色々な可能性に向かって分岐していく。生きている限りどんどん分岐しつづける。電車に間に合った自分と、電車に間に合わなかった自分というようにね。Aを選ぶ自分と、Bを選ぶ自分が可能世界として分かれる。生きてる限りその分岐はどんどん増殖していくんでシ。可能性に向かって。
だから、子供には未来がある。
若者には前途がある。
生きている間は決してその集合に蓋をできないから。
蓋をできるのは、死だけなんでシ。
そしてね、開集合が閉集合になる瞬間、死んだ瞬間、そのときだけなんでシよ。閉じたそれを召喚できるのは——」
(死ななきゃ駄目ってことか)
「そうなんでシ」




