第三十一話 士族棟 その1
環太平洋王国連合体の中枢。
織田豊臣、そして江戸時代を引き継いだその建国以来、ただの一度も「完全な崩壊」「国が亡くなること」「国土がなくなること」「国民が流浪の民となること」を経験していない日本。
「極楽みたいなものだったのよ。いまから考えればね」
士族棟。
そこはほとんど病院のようではなかった。
回廊の床にはLED畳を模した光が縞になって流れ、その一歩ごとにアンジュの影が薄く揺れている。
あの老医師木村が少し遅れた形でお供していた。
よく見ると彼の白衣も普通の医者白衣ではない。
直垂というのだろうか、医療外衣に濃紺の帯。胸に刺繍された「医侍二等」の紋章が大げさな感じでわずな光を反射している。
「なにもかも、仰々《ぎょうぎょう》しい」
周囲を見回しながら、アンジュは微かに、けれど嫌悪を隠さず小さく呟いている。
「……嬢様がここに足を踏み入れられるのは」
「二度目」
皇位系統華族だった亡き父の臨終に立ち会うためだった。
(そうなんだ)
おれにもなんとなく事情が伝わってきて、ほんとにこれはパラレルどころか全然違うと思うしかなかった。
アンジュは「お嬢様」と呼ばれ、父親は宮家の華族。
華族ってのは貴族のことだろう。
パラレル向こうの牧場育ちのおれたちの環境とは大違いだった。それでも繋がりがあるらしいからこうして呼ばれたのだろうとは思うのだけど———。
なにもかも仰々《ぎょうぎょう》しい。
アンジュがひとり言のように呟いた言葉はそのままおれも言いたいことだった。
歴史は知らんが、徳川時代が形を変えてまだつづいている。明治も大正も昭和も平成も令和もない。ずっと葵の御紋だけ。
おまけに文明開化もないから軍隊もたぶん刀を差しているのだろう。
(おれはそのときそう軽く見込んでいた。それが大間違いだったのはあとになってわかる)
とにかく、確かにおれがいた世界と比べると、ここは病院というよりホテルだった。それも都心にあるような、外人客向けの奇妙な和洋混合。
天井には総檜の梁が走り、その上を光ファイバーが脈動していて、壁には漆黒のパネル。
それがよく見ると漆絵だったりする。
伝統?
でもそこに描かれているのは伝統美ではなく桜吹雪の中を富士山を背景にしてサイバー甲冑の武士が胸を張って立っていたりする。といえば、どんな伝統かわかるだろう。
没落寸前の王国らしい混沌がすべて詰まっていた。
おまけにどこからか、海洋王国らしく微かに「波の音」まで伝わってくる。
「時代の妄想がそのまま建築になったみたい」
アンジュがぽそっと呟く。
「妄想こそ、われらサムライの糧でしたから」
老医師の木村が答える。
「そんなものとっくに消えてしまっているのに」
(中二病のようなものか)
「……儀礼を信じる者には、こうした華美が必要なのです」
サムライ医師の声は低く、どこか哀悼の色を含んでいた。
*
正面の扉が滑るように開くと、空気が入れ替わった。
伽羅の式香。
ひとの気配がまったくない。
この巨大な別棟ごと、まるで呼吸を止めたようだ。
士族棟の廊下は病院というより旧邸宅に近かった。
天井は高く、照明は低い。
無駄に広い。
看護動線としては最悪だ。
看護より外面、ということなのか。
「……ここ、やっぱり嫌い」
アンジュが背筋を伸ばしたまま率直に言う。
ゴム底なのに、靴音がやけに反響した。
老医師は歩調を落とさず答える。
「若い医官は皆そう言いいます」
「けれど、壊せなかった」
「そうですね」
「この国で、まだ士族が生き残ってる意味、ある?」
「意味はありません。しかし理由はあります」
二階へ向かう階段が現れる。
「身分で縛り、忠誠で縛り、医療も例外にしなかった。それが四百年、五百年と続いたわけよね」
「そういうことです。室町以来」
「それが伝統?」
「ある意味では」
「わたしも日本的なものは好き。でもそれはつづいてきただけ。わたしたちが創造したものじゃない。そうでしょう。継承しただけ。王国は、そこから何も更新していない、何も学んでない。過去の成功体験だけを引きずって、そこで妄想してる」
三階。
死体。
静けさ。
「王国は、勝ちすぎたのよ」
アンジュは歩きながら言う。
「そうですね」
「朝鮮、中国沿岸、海を渡って北米西岸」
アンジュは低い声でつづけた。
「全部、武士の延長線で支配できてしまった。四百年以上もの間、それでやってきてしまった。その成功体験が、腐るほど残ってるから」
老医師は、少しだけ顔をしかめた。
「……それが、今の繁栄の基礎でもあります」
「生意気すぎるかもだけど、それって、かつての蓄えでしょう? それを掘り崩して、食い潰してるだけ。失敗から何ひとつ学ばなかった、実際は、数多く失敗しているのに、そこから眼をそむけた」
四階。
廊下の影が濃くなる。
老医師は、しばらく黙ってから言った。
「学べなかった、という面もあります。勝ちつづけた国は、自分が勝っている理由を疑わない」
「だから、同じ失敗を繰り返すのよ」
怒りの表情でアンジュは立ち止まった。
いったい誰にそれをぶつけていいかわからないみたいだ。
おれはここに至って初めて、こちらのアンジュは、士族階級の残り火みたいな存在なのだと確信した。
だから余計それを嫌う。
嫌っているのにそれに囚われる。
向こうでだって剣道やってたけど、それは武士なんか意識したものではなかった。そういうサムライはもう百年以上前に存在した絶滅恐竜のようなもので、爺ちゃんがよく口にしていた「葉隠」とかいうやつだって、ただの郷愁だと思っていた。
ところが、———ここでは違うのだ。
アンジュは、その武士階級の姫様だか嬢様だか知らないが、そういう身分で、それを嫌っていて、その本家を出た。そしていまは、なんだか意味不などこかの魔術省とかいうところから派遣されて、ボランティアみたいにしてこの病院に勤めている。
そういうことなのだろうか?
けれどそれだと、あのメールというか、交信が奇妙だし、AIとのやり取りも意味不明なものとなる。
「みんな予感していたのよ」
怒りを抑え切れないという感じで言っている。
「いつかこういう日が来るって。王国は崩壊するって。……なのに、誰もそこに手を付けようとしなかった。なぜ? 政府も経済界もマスコミも、自分が『悪い子』になる勇気がなかったのよ。……わたしだって、そう」
あとは声にならなかった。
四階個室の患者たちもすべて眠ったままの状態で亡くなっていた。
老医師は、アンジュのその、愚直ともいえる言葉に反論しなかった。
「士族は、便利だったのです」とだけ告げた。「忠誠の置き場として。失敗を押し付ける器として」
それだけを告げると五階へ向かって案内をつづけた。
*
五階。
VIP区画。
ここには王国の次官がいるはずだった。
蝿のこと。
一般病棟で蝿を目撃するようになってから、アンジュは気づいていた。
飛び方に奇妙なものがいる。
しかも、銀蝿。
銀色の蝿なのだ。
(オルマン蝿?)
アンジュは疑っていた。
普通の蝿に混じっていて、死臭に引き寄せられるように集まって来ているが、飛び方と動作がどこかおかしい。
「もし、オルマン蝿だとしたら」
普通の蝿のように追って叩き落とすのではなく、なぜそれが蝿を擬態してその中に混じり、院内をくまなく回遊しているのかということを考えた方がいい。
AIに分析させた結果を信じるなら、スリープデスはヨーラシア魔国が疑われる。そこになぜ、第三極であるオルマン帝国の忍蟲、オルマン蝿が入ってきているのか。
その答えはひとつだった。
彼らも情報を求めているのだ。
この大量死の答えを出す情報を。
環太平洋王国、ヨーラシア魔国、オルマン帝国。
三すくみだったその世界構造が、いままさに崩れようとしている。
*
静まり返った回廊。
和紙照明の淡い光が遠い影のように壁に滲んでいる。
最奥の扉。
ドアは半ば開いたままだった。
室内から微かに式香の残り香が洩れている。
甘い檜と薬品の匂い。
息を呑んで部屋に入った。
窓際の大きなベッド。
王国の重鎮である国防次官と思われる中年?男性が仰向けに、シーツをだらしなく剥がしたみたいな感じで横たわっている。
腹が出ている。
むろん動かない。
そして、頭部だけが不自然に銀髪。
(白髪だらけ?)
(染めてる?)
一瞬思ったがそうではなかった。
銀髪がざわりと波打ったのだ。
(なんだよ、いきなり!)
あれは髪ではない。
数百、数千の細長い銀色の何かだ。
虫?
銀色がびっしり男の頭部を覆って何かをしていたのだ。
老医師が息を呑む。
「これは……」
「外から来てる。目的は支配じゃない」
「調査?」
「たぶん、王国の“死に方”を見てるのよ。なぜ王国が死んだのかを探ってる」
細長い糸のような銀虫がこちらの動きを感じて微かに脈動する。
「見て」
アンジュが短く告げた。
その中心で、普通の蠅よりやや大きな蝿が仰臥した男のこめかみあたりに取り付いて、その口先から伸びた金属質の針を皮膚の中に刺し入れている。
銀蝿はマシーンだ。
こめかみは頭蓋がもっとも薄い部分。
その奥には側頭葉があり、記憶や言語、聴覚などをつかさどっている。
「記憶が目的?」
「いや違うでシ。脳のサンプルを抽出してるでシよ」
これまで静かだったリス野郎がにわかに口を出してきた。
「サンプルって」
「死因でシ」
おそらくオルマンもこの大量死の理由を緊急に知りたがっている。なぜなら、自分たちもやられる可能性があるから。




