第三十話 白衣老人
繰り返すようだけど、憑いているといってもアンジュの思考の奥まではわからない。
でも事態はどんどん進んでいく。
『ISACRO』緊急。
■ 状況要約
王国本土で結界破断を確認。
国家機能の消失が示唆されます。
「……そんなことわかってる」
ますます不機嫌。
■ 登録名:Survivor-0038(小森安寿)の状態
生命兆候:受信済
式層波形:安定
各員ただちに仮面を取ることを許可する。
繰り返す。
要請にしたがい、各自仮面を取ることを許可する。
アンジュの「仮面」ってなんだよ?
ちらっとその画面に眼を落とす。
「……遅すぎるのよ」
悔しそうに舌打ちしている。
すっぴんの端正な顔がそのガラスの画面に映っている。
苛立っているようだ。
要請したのはアンジュだということはわかっている。眠っても大丈夫だとわかってから、彼女はずっとその要請をどこかに発信していた。
その回答がようやく出てきたのだ。
「政府と軍関係の生存者数は?」
「不明です」
「なぜ?」
攻撃されたのだと判明した時点で夜勤とか宿直だった多くの者たちがリストウォッチをはずし、左腕に仕込んである生体IDを抉り出して摘出してしまったらしい。
「逃げたの?」
敵に逆探知されないようにしたのかもとクォンタムは言うが、それなら方法は他にもあるだろう。
その言葉で、アンジュの辞書に「逃げる」という言葉はないことがわかった。
血翼フレーゲが遥か上空を飛び、
軍事構造体がコンビニに現れ、
どんどん侵食されていくのにどうしようもない。
戦う前に、数少ない味方までが脱落しはじめている。
無茶苦茶、頭に来ている。
「ズシ。早くして、間に合わない」
切迫したようにまた話しかけてくる。
(どうやって早くすんだよ?)
(全然わかんねえよ)
三日。
座標。
位置。
*
アンジュは、問いかけるようにして医局の端に視線を移した。
いつの間にかそこに老人がいる。
サムライカットとか向こうでは呼ばれてたマンバではなく、なんか正式に丁髷している。
いったいどこから現れたんだ?
医局の隅の椅子に、白髪の老人が仙人みたいな感じで腰を落としていたのだ。
心配そうにこちらを眺めている。
ほとんど気配を感じないのに、強烈な存在感がある。
やはり白髪だらけの髭はもじゃもじゃ。
汚れた白衣を着ていて、周囲の騒ぎをよそに、ひっそりと静かに座っている。
白衣なのだから医師なのだろうか。
誰?
おれにとっては見たこともない老男性だった。
眼が合った。
アンジュは微かにうなずいている。
知り合いなのだろうか。
落ち着いてきたら、どんどん知らないことが出てくる。
「……士族棟はご覧になりましたか?」
老人は渋い口調で唇を開いた。
こちらに敬語を使っている。
アンジュは微かにそれに反応した。
何か複雑な気持ちが、湖面に風が吹いてさざ波立ったように感情を揺すっている。
士族。
「やはり因果に出た通り」と彼は呟いた。
なんなのだろう。
「敵を甘く見過ぎていた結果です」
老人はひとりでぶつぶつ髭の中で呟いている。
「……上層部はなぜそんなことがわからなかったの?」
アンジュも唇を噛んでいる。
「楽観視しすぎていたのですよ、相手も人間だと」
こんなことをしたのは人間なのか?
AIではなくて?
「その人間が、こういうことをやるのよ」
アンジュも言っている。「必要だとなれば、なんでもやる。それが人間。そうでしょう?」
老人は深くため息をついたまま答えなかった。
そして、気持ちを入れ替えたように顔を上げ「召喚は、まだでございますか?」と丁寧な口調で訊いてくる。
「すでに来ています」
きっぱりとしたお嬢さん口調になってアンジュは答えている。
この老人も噛んでいたのか。
「慣らしはお済みですか?」と訊いている。
「上書き?」
「はい」
「もう少し必要だと思う。でしょう?」
おれに訊いてくる。
「魔術省に、もし所属させるなら確認儀式がございますから。弟君といえども、いちおうは確認しませんと」
「わかってる」
老人もそう言いながらアンジュの背後を眺めている。
弟君!
(霊媒師なのか、こいつは)
「決断されましたな」
「……仕方なくね。召喚するしかなかったの。……ごめんね。ひとりじゃとても無理。絶対悪には勝てない」
おれに言ってる?
「一卵であることを活用するしかないの」
「稀な奇跡です」
奇跡。
「古来からの言い伝えが」と老人。
「それに頼らざるを得なかったの」
「女と男。男と女。ひとつの卵から異なった性の二人が生じる。あり得ないことが起こる。その二人でなくては成し遂げられないこと……」
謎のような言葉を二人は言い交わして、アンジュは再び眼に涙を溜めている。
「ごめんね、ズシくん」
「無理をなされませんように」
老人は相変わらずアンジュに敬語を使っている。
「とにかく士族棟をご覧になったほうがよろしいかと」
そう控えめに告げてくる。
そしてアンジュはそれからまもなく、おれのその「ローカル情報」とやらを上書きするために疲れた体を立て直し、老医師の木村と共に士族棟に向かったのだった。
武士たちの病棟に。




