第二十六話 すぐに逃げてください
そして、死者たちの群れ。
患者さんの遺体は、あまりにも大量過ぎて動かせない。医局と子供たちのプレイルームを除いて、病院全体を真冬の風にさらす。冷蔵庫化する。
腐乱を少しでも遅くするためにはそれしかない。
……それしかない。
「足がむくんじゃって」
魔女といえどもアンジュも普通の人間だというように、自分の白く細い足首をさするようにして揉んでいる。閉鎖ユニットプレイルームのカーペットにぺたんと腰を落とし、何かをしきりに考えながら、壁に身を寄せ、自分の細身の体を両手で抱くようにしている。
勝機はない。
ギ酸を見ればわかる。
それなのに何を考える必要があるのか。
おれにはアンジュの頭の奥まではわからない。
おれなんかに期待せずにさっさと逃げるべきなのだ。
魔国の手が届かない場所に。
逃げろ。
逃げろ。
おれなんか放り出して逃げてください。
絶対かないっこない。
女性の身で抵抗するだけ無駄なんだ。
たとえ、あのリス野郎と組んだ悪魔だとしても、かないっこない。そのぐらい魔国の魔術力は頭抜けている。
かすみさんもそうだ。
病院業務なんていいから自分のことだけ考えてください。
まだおれたち見習いみたいなもんだったじゃないですか。
責任なんてないんですよ!
———なのに、
「なーんか、安心しちゃいましたねえ」
かすみさんは、仮眠とはいえ爆睡したから妙に元気になってしまって、そう言っている。
女同士だからだろうか、体をあずけてきて頼りきってるみたいになっている。いっときのほんわかムード。アンジュ2.0がネキというか男前の姉御みたいな感じだから安心感もあるのだろう。おれにとってはハーレム状態。
「寝れるっていいですねえ。なーんか温泉に入ったみたいで」
そんなことまで呟いている。
眠れるようになったからといって、どうだというのだ。
相手はとんでもない科学を発展させてるんだぞ。
第二波が来るに決まってる。
なのに、かすみさんはというと、幾度もコケティシュに伸びをして、普通のときみたいに、コンセントにケーブル差し込み、呑気にスマホに充電しようとしている。
そんなのいいから、かすみさんも、どうか逃げてください。
お願いします。
これから変身したらスーパーガールとかブラックウイドウとか無理なんだから、逃げることだけ考えて。
エレベーターであのとき会話したことなんて全然後悔してません。
うれしかったんですよ。
だからそれがおれの「死因」だなんて、そんなこと、誓って、思ってません。
それより、何より、自分の身を守ってください。
お願いしますから……。
*
バッテリーが駄目になったスマフォみたいにヘタれていた。
充電するのは将来があるからそうする。
未来がなくなりゃ充電したって使えなくなるんだからそんなことしない。
(でしょう?)
すぐにネガってしまう、
おれの悪い癖は死んでも治らなかった。
そのとき——、
何気にかすみさんのスマホ画面をチラ見したのだ。
見えてしまった。
おれではなくアンジュが見たのだけど、そこで何かちょっとさざ波が生じた。
というか、それが大波になった。
おれのスマフォは元いた世界の私服のポケにいまでも入ってるだろうけど、向こうのスマフォは充電するとグリーンの電池っぽいイラストが出てきて「32%充電中」とかだけ表示が出る。
ところが、こちらはそうではなかったのだ。
『外部電源接続確認。クォンタムレイヤー07へ演算リソースを供出中。現在のスコア:422.5』
なんだこれ? 意味不明。
するとアンジュも「わたしもやっとこうかな」と呟いて、仕事というかそっちのではなくもうひとつの「私用」のスマフォをHurtバッグの中から取り出し、巻き取りタイプになっているケーブルも取り出したのだった。
そしてそれを、なぜか確認するように、かすみさんのスマホの横に置いた。
同じようにもうひとつのコンセントに繋ぐ。
「ちょっと怖いけど」
「ですよね」
「そっちはどうなってる?」
「……ほぼゼロです」
「こっちもそう」
アンジュのスマホにもその表示が出ている。
稼働可能ノード数:850482144
状況:【危機的状態/奉仕者反応、ほぼゼロ】
生存個別識別:0,0000001%(生存確認不能/同期途絶者含む)
指定業務:【全系奉仕停止/適格者承認待ち】
おれはそのとき、二つのことを見誤ってしまった。
まず、数字だ。
「ノード数」というやつ。
端末だったのだ。
それをおれは、シリアルナンバーみたいなものと勘違いしてしまった。
まさかそれが端末、つまり使用者数だとは思ってもいなかった。
つまりこの数字の意味は、
八億五千四十八万二千百四十四。
その数だけ、パソコン、スマフォなどによる「端末使用者」がいるということを示していたのだ。
通常なら、八億五千四十八万二千百四十四人の端末使用者がいる。
ところが現在の生存個別識別で確認できたのは、『0,0000001%』。
つまり、ほぼゼロに近い。
そういうことだったのだ。
体がないのに震えが来た。
八億五千万人以上の端末使用者が消えている。
とんでもない大虐殺だった。
しかもだ。
しかもそれは、端末を使用している者たちだけの数。
それ以上の数の人間が、この環太平洋王国とかいう連合体の中で居住し、暮らしていたということになる。
それが、一瞬にして消えた。
「……開けなきゃよかった」
「わたしも」
二人でぼんやり呟き合っている。
「でも、……でも確かめないといられなくて」
「……わたしも」
「ひどすぎます」
かすみさんが絞り出すような声で、ぽつんと呟いた。
アンジュはそれには答えられない。
自分の責任のようにうつむいてしまっている。
だから(スマフォなんか見るな!)
すぐに何もかも捨てて逃げろと言ってるのに。
おれの声は歯がゆいことにかすみさんには届かない。
こんな大惨事に対抗しようとしたって無理なんだ。
無駄なんだ。
するといきなり、今度はかすみさんが泣き出してしまったのだった。
「……でもなぜですか?」
こみ上げる涙を拭おうともせず、絞り出すような声でかすみさんはアンジュに訊いている。
「なぜ、……いたいけな子供たちまで、……赤ん坊もですよ、……赤ちゃんまでどうして皆殺しにしなきゃいけないんですか?」
かすみさんは産科に、倉田ママと一緒に確認しに行っていた。
そこで、見たのだ。
その光景にひどくショックを受けていることをアンジュは知っていたから、それでわざわざ寄り添っていた。
「なぜ、産まれたばかりの赤ん坊まで」
アンジュはその問いに答えなかった。
答えられなかった。




