第十話 幽霊とリスと魔女
「冬眠しないでシ」
(……何?)
「エゾリスは冬眠しないんでシ」
たどたどしい幼児のような声は言っている。「せっせと溜め込んだドングリさんをでシね、ちびちびっと、ちびちびっと、ちょっとずつ食べて冬を過ごすんでシね。おわかりになるでしょか?」
ポッケからひょっこり顔を出した小顔のリスが、クリクリした眼でおれを見ていた。
(おまえ……)
(もしかして、おれに話しかけてるのか?)
幽霊とリスと魔女。
三者のコミュニケーション。
どうなってるわけ?
「感じてる通りでシ」
舌足らずな声が返ってくる。
(なんでだ。おれは霊なんだぞ)
「招待者でシから。招待者特権で、出来るんでシね」
その言葉だけが、妙にクリアに頭に残った。
招待者特権。
(おまえがおれを招待したわけ?)
「正確に言うと、リクルート」
(……リクルートって)
おれは求人広告なんかに応募してねえぞ。
「ヘッドハンティング」
(なんじゃそれ?)
「子供電話相談室、終わり」
そう言い捨てると、リスはくるりと反転して再び安寿のポッケの奥に潜り込んでしまった。
いくら呼びかけても、返事はない。
(……あの野郎)
というか、小僧?
子供?
リスだから年齢がよくわからない。
*
彼女は相変わらず、何も言わない。
ポケットの中で何かが動いているのを、本当に感じてないのか。
それとも、最初から知っていたのか。
自動ドアは開かない。
横の通用スイングドアを押す。
ギギッという音。
枯れ葉が入ってきている。
なんだか不気味な雰囲気だった。
一瞬、外がなくなっているのではないかという恐れが立ち上がってきて、彼女は身をすくめた。
いやいや、そんなはずはない。
しかし、エントランスを出たところで安寿は立ち尽くしてしまった。
背後に死の空間があるのに平和だったから。
その静けさが、なぜか恐ろしい。
踏み出そうとしたとき、ナース服の右ポケットで私用のスマートフォンが鳴りはじめた。
安寿は一瞬、背筋を固くする。
表示を見る。
少し躊躇いながら応答。
「……もしもし小森さん、……いま大丈夫?」
娘さんが心配だとあの後慌てて帰宅していったベテラン看護師の波多野さんの声だった。
妙に抑揚のない、暗い声をしている。
「大丈夫?」
「駄目、だった」
短くそう言ってきた。
駄目?
「娘が……寝たままで。揺り起こしても、胸を押しても、動かなくて」
声が、途中で詰まる。
「温かくしてあげたの。寒いだろうと思って。なのに……」
それって。
なんだか感情がない。
安寿は何も言えなかった。
ただ、電話の背景の沈黙を聞いている。
「……ねえ、小森さん」
「はい」
「……変なこと言うみたいだけど」
波多野さんの声が、さらに低くなる。
「皮膚がね、少しずつ透明になっていくの。最初は手が。次に腕が。どんどん透けていって……」
「娘さんが?」
「死の中に引きずり込まれていくみたいにね、その透けたところに、なんか……模様みたいなのが浮かんでくるの。螺旋みたいな、式みたいな……」
式。
「なんの式?」
問い返そうとした瞬間、
向こう側で切り裂かれるような叫び声がした。
ヒィッっっ。。
叫びに吸い込まれるようにそのまま電話は切れた。
折り返しても、出ない。
安寿はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。
サヤカが不安そうにその顔を見上げている。
眠りの中に何かいる。
サヤカだって眠らない子だけど、もうずっと寝ていないのだからこっくりしかねない。
でもどうしたらいいのだ?
回復魔術で暖かくしてあげてたらかえって逆効果かもとか、いろいろな思いが湧き上がってくる。試しに立ち止まって空を仰いだまま眼を閉じた。
明るい目蓋裏がぼんやり広がっているだけで何もない。
でも眠ったらその中に吸い込まれる。
どうしたらいいのか。
ブーンという低騒音。
周囲を見回したがそれらしきものは見当たらない。
耳を澄ませても車の音ひとつ聞こえない。
なのに———。
その低音はどこからか伝わってくる。
*
と思った矢先、
またしても今度は寒風の中でスマホが震動した。
『貝矢吾郎一尉』
安寿の心拍数が跳ね上がる。
「……よかった」
震える声で応答する。
野太く低い男性の声が伝わってくる。
彼はいま、ハワイの西界州アメリコ海軍基地にいるという。合同訓練で来ていたらしい。
「こっちも速報は見てます。ですが……動けないんです」
王国内の同盟国間の合同演習で来ていたスチーム子艦や装甲母艦の出港許可が、降りないのだという。
強力な伝染病の可能性がある、と。
アメリコでも、ヨーラシアでも、オルマンでも、そう喧伝されている。
正体不明の病気が制圧されるまでは近付くな、と。
「……隔離ってこと?」
「そう思った方がいい」
苦しそうな声が、突然雑音にかき消された。
「もしもし?」
応答はない。
安寿は、しばらく何も言わなかった。
救援は来ない。
環太平洋王国の同盟国でさえ、動かない。
*
次から次に情報が入ってくるのに、おれはそれを処理し切れない。
(あれは病気? 伝染病?)
(なわけない)
朝の空気。
病院前の空間は向こうより遙かに広かった。
正面の植栽の中に、石碑がある。
『王国律第三病院』
おれが勤めていた八王子第三病院も、いつの間にかそんな名前に変わっている。その脇にはここにも、三つ葉のようなあの紋章がゴールドで刻まれている。
救急の表示も違っていた。
『救外門、気息清浄ブースを必ずお通りください』
気息清浄ブース。
意味がわからない。
安寿は歩きながら、ぽつりと言った。
「ズシくん。見てるでしょ。同じパラレルでもあなたがいた世界とここはずいぶん違うの」
パラレル……。
「本来ならもっと時間をかけて、こちらのことを上書きしてもらう予定だった。でも、もうその余裕がない。完全に不意打ちされたのよ」
不意打ち。
———てことは、
眠りの中に何かいるというそれは、
兵器なわけ?
安眠を片っ端から喰う怪物に襲われてるわけ?
(……防御のしようがないじゃん)




