第1話「振り向く回数」
夜は、少しだけ歪んでいる。
そう言われれば、素直に納得出来てしまいそうな夜だった。
「……またかよ」
有栖朔は、足を止めた。仕事の帰り道。
人通りは少なく、街灯だけが頼りない光を落としている。
コツ。
半歩遅れて、足音が鳴る。自分のものじゃない。
「気のせい、じゃないよな」
分かっていて、振り向く。誰もいない。
でも"さっきより近い気がする"
その違和感だけが、はっきりと残る。
「二回目」
背後から声がした。今度は驚かなかった。
振り向かない。向かなくて誰だか分かった。
そこにいるのは、月城いろはだ。
「……脅かすなよ、いろは」
「脅かしてないよ」
朔の目の前に来たいろはは、また、朔の後ろをじっと見ている。
「さっきので二回目」
「何がだよ」
「振り向いた回数」
さらっと言う。意味が分からない。
でも、嫌な予感だけはする。
「あと一回で、終わり」
「だから、なにがだよ」
「あなたが、よ」
少し間を置いて、
「連れていかれる」
空気が、静かに冷える。
「……誰に」
聞いた瞬間、いろはは少しだけ首を傾げた。
「"後追い様"」
聞いた事の無い名前だった。
「簡単に言うね」
近くの公園。ベンチに腰をかけながら、いろはは淡々と話し始める。
さっきまで"何かがいた道"から、少し離れた場所。それでも完全に安心できるわけじゃない。
「夜道で、後ろに気配を感じる?」
「……それは、今まさにだな」
「それが"後追い様"」
いろはは、続ける。
「で、振り向くと」
「近づく、か」
「うん」
あっさり、肯定される。
「一回で数歩分。二回で、手が届きそうなくらい」
「じゃあ、三回目は?」
「触れる」
短い言葉だった。でも、それだけで十分だった。
「触れられたら?」
聞くと、いろはは少しだけ考えてから、
「多分、そのまま連れていかれる」
「多分ってなんだよ」
「見たことないから」
平然と言う。
「戻ってきた人がいないから」
その言葉だけで十分すぎた。
「……回避方法は?」
しばらく沈黙してから、朔は聞いた。
「あるよ」
即答だった。
「振り向かないこと。」
「それは分かる」
「それだけ」
「それだけ?」
「うん」
いろはは、頷く。
「シンプルなやつほど、難しいから」
確かに。さっきだって分かっていても振り向いてしまった。
「無視し続ければいいってことか」
「理屈はね」
「理屈は?どういう意味だ?」
「段々、近づくから」
「は?」
「振り向かなくても、来るよ」
最悪だった。
「じゃあ、詰みじゃねぇか」
「だから、条件がある」
いろはは、少しだけ楽しそうに言う。
「"気付かないフリ"をし続けると、離れる」
「……は?」
「完全に無視出来た場合だけね」
それ、ほぼ無理だろ。
「--面白いね、それ」
不意に、別の声がした。ベンチの後ろ。
いつからいたのか、気配が全くなかった。
振り向くと、男が一人立っていた。
「……誰だよ」
「通りすがり」
軽く答える。明らかに嘘っぽい。
「話は、概ね合ってるよ」
男は、続ける。
「補足するなら」
ポケットに手を突っ込んだまま、こちらを見る。
「三回目で"認識される"」
「認識?」
「そ、向こうにね」
淡々とした声。感情が全然乗ってる気がしない。
「一回目と二回目は、まだ"気配"」
「三回目で"存在として固定される"」
「それで終わる」
ゾッとした。説明が具体的すぎる。
「なんでそんなに、詳しいんだよ」
聞くと、男は少しだけ笑った。
「見てきたから」
それだけだった。
「御影識」
さっきまで、口を閉ざしていたいろはが、小さく名前を呼ぶ。
「知り合いかよ」
「まぁね」
識は肩をすくめる。
「で、どうすんの?」
「どうするって」
「次、三回目でしょ?」
当たり前の様に言う。逃げられない前提で。
「……回避方法、他にないのか」
「あるよ」
識はあっさり答えた。
「まぁ、成功率は低いけど」
「言えよ」
「振り向く前に、距離を取ればいい」
「……どうやって」
「走る」
シンプルすぎんだろ……
「でも」
識は続ける。
「向こうの方が断然早い」
終わってる。
「もう一個あるよ」
今度は、いろはが言う。
「なに」
「視線を切る」
「どういう意味だよ」
「"見てる"って意識を消す」
無茶だろ。
「それが出来たら、苦労しねぇよ」
「だよね」
いろはは少しだけ笑った。沈黙が落ちる。
遠くで、風がなる。夜は静かで、どこかおかしい。
「……まとめるぞ」
朔は小さく息を吐いた。
「三回振り向いたら終わり」
「振り向かなくても近づく」
「完全に無視出来れば助かる可能性がある」
「走っても意味無い」
最悪の条件だった。
「で、どうするの?」
識が聞く。まるで他人事みたいに。
でも、ここで決めるしかない。
「……やるしかねぇだろ」
朔は立ち上がった。
「三回目が来る前に」
夜の道を見据える。
「振り向かないで、乗り切る」
無茶なのは、わかってる。でも、覚悟を決めるしかない。
「いいね」
識は少しだけ楽しそうに言った。
「じゃあ、見学でもさせてもらうよ」
「手伝えよ」
「必要ならその時に手を貸すよ」
信用出来ねぇ。でも、
「私も行く」
いろはが、立ち上がる。
「全部は知らないけど」
少しだけ真面目な顔で、
「見捨てられないしね」
夜の歪みが確実に近づいている気がした。




