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匣の街  作者: Mr.Y
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夜の街・夢路と昭和百年

「私、東京に住んでたんだ」

 昼休みに彼女とタバコを吸いながら話すようになっていた。立ち話をするのはきっかり三十分。長い時間ではないだろう。短いといえば短い。だが十分といえば十分な時間だった。

 そうだ。俺はその頃、タバコを吸い始めたのだ。それなら休憩室に戻って職場の連中と雑談でもしていた方が仕事が円滑にいっていたのかもしれない。けれどそれは振り返ってみて思うことで、そのときはただ彼女と話す方が自然な行為だった。

「またなんでこんな田舎に」

「遊んでても仕方ないからってさ」

 その実家がカトラリー工場の経営をしていると知ったのはしばらくしてからだった。そもそも彼女はひとり暮らしをしていたし、そんなにお金を持っているふうでもなかった。おどけながら語り、むしろ自分のことを語ることによって、俺自身に自分のことを語らせたいようでもあった。

 俺が彼女自身のくわしいこと(病気だとか家のことだとか)を知ったのも、彼女の病状がかなり悪化してからのことだった。

 そのとき俺はただ目の前の彼女をみていた。もしかしたら彼女はそれを望んでそうしていたのかもしれない。

「俺なんて△市を出て働いたこともないし、そこに可能性があるとも思えなかった。ただ柔道やら工業高校の授業をがんばってた。いや、与えられたことをこなしているだけだったかも。でもいまはそれらの事とは無縁な商品の棚整理が仕事さ」

「ままならないことは人生あるさ」

「それはそうだろう。けどこの先、なにが待ってるか、わからないながらに見通せるんだ」

「どんなことが?」

「毎日こうやって完成した商品を出したり引っ込めたりして、給料もらって、その範囲内の生活するんだろうな」

「達観しすぎてつまんねぇな」

 彼女は肘で俺を突いた。

「でかいことしようぜ。例えば仕事の合間に勉強して給料貯めて起業するとか」彼女は笑いながら話す。そして声のトーンを落とし親指で後ろの工場を指差し「あれを爆破するとか」とぶっそうなことをいった。

「縁起でもない。せめて檸檬一個を置くだけにしとけよ」

 あまり読書家でもない俺でも教科書に載っていた梶井基次郎くらいは知っていた。

 彼女は一瞬、驚き「そうだね」と寂しく笑った。

 いまにして思えば縁起でもないのは俺のほうだったかもしれない。梶井基次郎は肺結核で若くして亡くなっていたのだから。


 俺と竹久は食品や生活雑貨一式を買い、軽トラの荷台に積んだ。

「昭和百年ってなんだよ」

 あらためて口に出してみたが違和感はやはり拭えない。

「昭和百年っていったら昭和百年。年号、記念、節目、あと他には言い方は想像できないな。情勢が情勢だから式典みたいなものはないみたいだけど」

「いや、そういうことじゃなくて」

 はぐらかすようでもなくいわれるとそういうものか、とも思えてきた。

「れいわ」

 俺の口から思いもかけず漏れた単語はひどく場違いな言葉に聞こえた。紙袋の奥の竹久の目が心配そうに俺をのぞきみた。

「なにそれ?」

「本当なんなんだろう」

「疲れてんだよ。はやく家に帰って休もう」

 竹久の道案内で▽町の道を軽トラで走るが、どことなく見覚えがあった。

「なんか見覚えがある」

 俺のつぶやきに竹久は「やっぱり疲れているんだよ。見覚えがあって当たり前。ちょくちょく暮らしていたこともあるから」といった。

 覚えているようなないような不思議な気持ちがあるが、着いた先の集合住宅で嫌な思いが思い出された。

 確かに知っている建物だった。二階建ての集合住宅で二階の東側の一室だった。朝は日当たりは良すぎて夕方の西日は弱く、その部屋は一日が早く終わると彼女がいっていた。

「ここってもしかして」

「また一緒に住もう。だって夢路、帰り道わかんないでしょ?」

「それはそうだけど」

 荷物を持たされ、階段を登る。何度登ったかわからない階段だった。当初は心の弾む階段だった。やがて彼女はこの階段を忌々しいといっていた。いや、健康のための階段だと笑って、次第に忌々しく、最後は弱った自分に対して忌々しく。

「俺、やっぱり帰るよ」

「ここまで来て?」

 俺は怯えていた。また悲しみがドアの向こうで待っている気がした。買い物一式を抱えてドアを開けた先に待っているのは、会いたいひとではなく悲しみなのだ。けれど俺は竹久の言葉に導かれるように階段をあがる。そこに俺の意思はあるのだろうか。もしかしたら悲しみなんて待っていないのかも知れない、という希望を抱いているのだろうか。

 ドアの鍵が開けられた。

 竹久は「さぁ、はいって」といって俺にうながす。

 竹久が先にはいってくれてもいいのだ。だが俺はそんな思いも頭の片隅さえ思いつかなかった。俺ガそのドアを開けなくてはならない。

 そこは見覚えのあるアパートの一室だった。

 長らくひとの暮らした部屋の匂いがした。

 化粧品や薬、タバコの匂い。木と畳の匂い。

 そこには、あると思われていた悲しみの片鱗は一切なかった。天井から床に向かって一直線に伸びるロープも、絶望の果てに動かなくなった彼女も、救えなかった命も、落胆も諦めもなく。ただ生活するための一室が広がっていた。

「おかえり、夢路くん」

 竹久が後ろから声をかけてくれた。

 俺は泣いていた。だから竹久の声を無視した。だってまた泣き虫だと馬鹿にされたくなかったから。

 馬鹿な俺はこれから長く待ち望んだ、あの悲しみのない生活が始まると思った。


 彼女が昼休みにいないときがあった。

 それは彼女が休んだのか、仕事が忙しかったのか、あるいはタバコを吸う気分ではなく工場内で同僚とのおしゃべりに夢中だったのか、それすら俺にはわからなかった。ただなんとなく俺は昼休みに彼女と話すのが生活の一部になっていたことに気づいた。

「あの日、風邪で仕事休んだのか?」

 後日、彼女が再び昼休みにあらわれたときに訊いた。

 彼女は「ううん。男の子って、気になる相手がいると、LINEを既読スルーしといて何時間か、あるいは数日経ってから返信するやつあるじゃん。あれを試してみたんだよね。君がどういう反応するかと思って仕事を休んでみた」と訳知り顔でいった。

 俺はなにもいえなかった。いつもそうだ。こういう場面になると俺は言葉というものが出てこない。もっと映画やドラマのように気の利いた言葉でもいえればいいのだけれど。

 しばらく気まずい沈黙が続き、俺は頭のなかで探していた言葉をようやく声に出した。

「LINE教えてくれよ」

「既読スルーしてから返信するとか?」

 はじけるように笑う彼女に「ああ、そうさ。今度は俺が試してみたいからな」といった。

 彼女がどういう顔をしたのかわからない。

 おそらく真っ赤になったであろう俺の顔を彼女にみられたくなかった。俺は遠くに青く霞む伊夜日子山をみながらただ返答を待った。俺の精一杯がそれだったから。

 彼女と会い、話すことが生活の一部となっていった。

「毎日、商品を出したり引っ込めたりして、給料もらって、その給料の範囲内で生活する」と以前彼女にいった。それが生活だと俺の人生だと割り切っていたが、それが変わっていった。

 彼女と会うのが彩りになっていった。


「夜は基本的に出歩かないこと」

 ▽町の集合住宅に住み始め、まず竹久に注意された。

「大災厄から協定が破られたからさ」

「大災厄?」

「ああ、巨大ななにかが現れた。川が海嘯を起こし、山が崩れ、空が割れ、昼が短くなった。町の周囲は夜ばかりさ。次第に昼はなくなるらしい」

「なにが起こったんだ?」

 さぁ、と竹久は首をすくめた。

「いま頭のいいひとたちが集まって考えているところさ。ただ、私たちは夜を乗り越えていかなければならない。それまでなにか仕事をしないとね? 夢路くん、なにができる?」

「プレス、研磨」

 指折りながら俺は考えた。

 これは工業高校で習ったことだ。

「棚整理、フォークリフト、エクセル。エクセルは苦手だけど」

 これは食器工場でやっていたことだ。何年かやっていた。身体に染み付いている。さきほどいったことよりスムーズにできる気がした。

「田植え、水管理、草刈り、施肥、稲刈り、農機全般、収穫などの農作業……免許はないけど危険物取扱乙四の知識」

 なにかが引っ掛かった。俺はその仕事をどこで習ったのだろうか。記憶を遡ろうにも霧がかったように遡れない。いや、思い出したくない自分すらいた。

「いま▽町は人材不足だ。なにかしらできることがあれば、力になれるさ。明日、役所に行こう」

 そうだ。いまは疲れているんだ。明日、色々やればいい。長い長い日々の果てについに探していた彼女に会えたのだから。いまは寝よう。俺はソファに横になるとすぐにまぶたが重くなった。

 どこか遠くで「まだ寝ちゃだめだよ」と声が聞こえた。俺はなにか応えたはずだが、言葉にも思考にもならず深い眠りに落ちていった。

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