夜の街・犬飼游と拝屋樹
游は背後から来る追っ手の気配が消えると、左脇腹を押さえて砂利道に座り込んだ。
心臓はドラムロールのように絶え間なく胸を内側から打っている。汗も次から次へと出てきて、まるでシャワーを浴びた後のように全身が濡れていた。ドッカージャンパーを脱ぐと、冷えた夜風が心地よかった。そして荒い息を整え、立ち上がった。
「ここはどこだ?」
游は▽町に来たはずだった。だがここが▽町のどこかわからない。しかも日は暮れている。辺りは砂利道で田んぼが広がる農道のようだった。
その田園の向こうにぽつりぽつりと電灯が灯り、後ろを振り返るとアパートなどの住宅地、コンビニや複合商業施設がみえた。それらの建物の奥に▽駅がみえる。
この▽町に△市の名残はないと思ってたが、ここにはまだいくらか名残はあった。そしてここが僕の知る本当の世界だった。
お父さんはあのあとどうなってしまったのだろう。学校は、家はどうなったのだろう。そんな疑問とともに記憶が戻ってきた。
それと同時になにから逃れてきたのか、どこをどう走ったのか記憶に霧がかかったように朧げになってきていた。
ただ同時に泣き出したくなるほどの、どうしようもないくらいの喪失感に襲われた。
そのとき車のエンジン音が後ろから聴こえた。
振り返ると、それはパトカーのようだ。車体の上のライトは点滅しておらず、ただのパトロールかもしれない。
いまは夜だ。外に出ている自分が禁忌に触れているような気持ちがした。だから無視してやり過ごそうとした。
夜、駅から家路につくひとを演じながら俯き、田園の向こうにある集落を目指して農道を歩く。心臓の音は疲労からくる鼓動なのか、緊張から来る鼓動なのかわからなかった。
パトカーは僕の横を通り過ぎると次第に速度を緩め農道に停まった。
僕は後ろの方に向きを変えて逆方向に歩こうとしたが、後ろには軽バンが停まってライトで僕を照らしていた。
どうやら彼らは僕に用があるらしい。
逆光で軽バンの運転手の顔はよくわからない。ただ口元の髭の剃り跡がやたら青くみえた。
そしてパトカーの助手席のドアが開き大男が出てきた。彼が出ることによって沈んでいたパトカーのサスペンションが跳ね上がり、車体がいくらか浮いた。
「ちょっと君」
警官をみるまで、逃げようと思っていた。
田んぼのなかに足が泥にはまっても構わず走ればなんとか逃げ切れるかもしれない。そう考えたが、警官の巨体をみてその気も失せた。
警官はぬうっと僕に顔を近づけた。
あきらかに距離が近い。極度の近視なのか僕を驚かせたいのか判断はつかなかった。表情からはそれを読み取ろうとしてもなにもわからなかった。ただ細いツリ目の面長の顔が近くにあり不快だった。
「君は……犬飼游くんだね」
嘘をついても無駄だと思い、僕は頷いた。
すると大男は顔を覗き込むのをやめ、胸にある無線機でどこかに報告した。
「犬飼游くんを無事保護しました。ああ、はい。了解しました」
無線機からはなにやら声が聞こえたが聞き取れなかった。
「さぁ、いこうか」
僕はパトカーの後部座席に促された。
「僕はこれからどこに連れて行かれるんですか」
「教祖のところさ」
僕は少しほっとした。保護した、とも報告していたし、どうやら暴力的なことにはならないらしい。
幼少期、窓越しに夜の住人と話たときのことを思い出していた。あのときは夜の住人は僕と話したがっていた。窓を開けてくれ、と。お父さんの声を真似たりして。それを他の夜の住人に見咎められ、他の夜の住人たちに私刑にされたようだった。この警官も第三成長期を経た人物だろう。怒らせたらどうなるかわからないが、それほど凶暴そうでも、人類と異なる知性を持っているようにもみえなかた。
大男とバックミラー越しに目が合った。
大男がゆっくりと振り返り、無表情にガーゼのハンカチを僕に渡した。大きな手に不釣り合いな白いハンカチで縁には赤い縁取りがあった。
「それで口を拭きなさい」
そういわれて唇の端が大きく裂けていることに気づいた。まるで殴られた跡のように赤く腫れて血が滲んでいた。ガーゼのハンカチをあてがうと白いガーゼが血を吸い込んで、赤く大きな円に滲んでいる。
「あげるよ。押さえてなさい」
「ありがとうございます」
押さえているうちに脈を感じるくらい熱をもってきていた。まるで僕の知らないうちに殴られたか、カッターで切りつけられたようだった。そしてなぜか失望と寂しさが込み上げてきた。
着いた場所は▽中央病院だった。
そこはまるで病院だけ空襲を受けたように上の階が崩れていた。
大男は教祖・拝屋樹の部屋に案内すると説明した。もうひとりは駐車場で待機し、それからどこをパトロールするか、ふたりで相談していた。
僕は病院の上の崩れた部分をみていた。
「大厄災の爪痕だ。巨大な怪物が現れた。ミシャクジと名づけられたそれは霧のなかから現れ、下流から遡上してきた。あれからすべてが変わってしまった。地震があり、山が崩れた。町の周囲の霧は晴れた。昼は短く、夜は長くなった。なにもかも変わってしまった」
相談から戻ってきた大男の言葉に既視感があった。
誰かから聞かされた話のような気もする。いや、この既視感はひどく疲れているせいかもしれない。パトカーのなかで何度か眠りかけてしまっていた。
警官についてエレベーターに乗った。
話は一切しなくなった。警官は僕に視線を合わせず、ただ機械のように僕を先導してくれていた。そこには僕にハンカチをくれた優しさなんて少しも感じられなかった。
やがて五階につき、木製のドアの前で大男はノックした。
「失礼します」と大男が緊張した声でドアを開け部屋に入った。
ドアを開けると異臭がした。
嗅いだことのない匂いだ。唇を押さえていたハンカチで鼻と口を覆った。
「犬飼游くんを連れてきました」
大男は頭を下げた。僕も一応、それにならった。
「ありがとう。君は下がってもいいよ」
大男は敬礼すると「失礼します」と流れるような動作で部屋を出ていった。この臭いがよほど苦手なのか、それとも拝屋樹が怖いのか判断はつかなかった。
「犬飼くん、博士に挨拶しなさい」
ソファに座った拝屋樹が僕にいった。
この部屋の臭気の元なのだろう。
エグゼクティブチェアに座った博士がいた。
博士は上を向き口を開けている。歯茎は痩せ細り、歯はいまにも抜け落ちそうだった。
目はもはや白く濁ってなにもみていなかった。
肌は白く瑞々しさを失って骨に張りついていた。ところどころ紫色に斑ができている。
おそらくこの状態になってから一切、動かされていないと思われた。
「……このひとは死んでる」
樹は「バカいっちゃいけない。いきなり不躾になんだ。礼節にかけるぞ」と笑いながら、テーブルに置いてあるガラスポットから水をグラスに注いだ。
「……お久しぶりです」と渋々、博士にお辞儀した。
「さぁ、座りなさい」と樹に水を差し出された。
「それで、神に会えたかな?」
樹は僕に本当に親しそうに声をかけた。それこそ田舎の好々爺といった具合だった。スーツが似合わないくらいの素朴な声だった。そしてこの場に似つかわしくないとも思った。
「神は……いませんでした」
出された水に口をつける気にならなかった。こんな悪臭漂う場所に置かれていた水なんて飲めないとも思った。
「ふぅ」樹はため息をついて「君には才がなかったということか」と落胆したようだった。
話がおかしい。まるで樹に依頼されて僕は▽町から出て神を探しにいったかのような言い回しだ。
僕は自分の意思で町を出たはずだった。
夜と昼の住人同士の血腥い抗争。お父さんが霊的生物に寄生され、意識を失いはじめた姿をみていられなかった。そして僕は高校入学の際に博士がした演説からの暴徒化した生徒のなかで唯一の生き残りだった。この町のなにもかもに嫌気が差して、幼いとき行方不明になった友人のことを思い出し、偶然出口をみつけたはずだ。
「どうしますか? 博士」
答えるはずのない博士に樹は話しかけていた。
「……戌井の血の方が近かったと……連絡はもう……クラゲのように知性がないものは境界線を……夜子に礼……ははは、それは手痛い……」
早口で博士に話しかけながら水を飲んだ。
僕はこの部屋の臭気と樹の奇怪な会話に胃から内容物が逆流しそうだった。
当然のようにして話す樹の言葉が本当だとしたら? 生徒が暴徒化したのもお父さんの変化も昼と夜の抗争も自然と僕を動かすために裏で糸を引いていたとしたら? 僕が僕の意思だと思っているものは全部このひとたちによる人造物だとしたら? いいや、そんなことはない。もしそうだとしたら僕はこんなにも不快なはずはないのだ。だとしたら不快と感じた部分が僕自身なのだ。
抑えても抑えても、むかむかと不快な気持ちがせり上がってきて、たまらず叫んでいた。
「博士は死んでいます!」
「死は弔われてはじめて死ぬものだ。この御方はまだ弔われていないよ」
僕の怒気などどこ吹く風といったふうに樹は涼しげに返答した。
「ですが、紫斑も死後硬直もしているじゃないですか! もう腐敗すら……」
「それは単純な肉体の変化だ。君だってまだ変わる。私も第四成長期には肉体が変化したものだ。万物は流転するものさ」
樹は、また博士に話しかけると一切、押し黙ってから頷いた。
「ふむ。游くん、しばらく指示を待ちなさい。君には大事な役割がある、と仰っている」
「……博士が話したんですか?」
「聞こえなかったのか?」
こいつは狂っているんだ。
だからなにもかも都合よく解釈しているだけなのだ。だから博士の命令で僕が町から離れたと認識し、死んだ博士を生きていると思い込んでいる。
「形なきものをみて、音無きものを聴け」
できの悪い生徒に教える先生のように得意そうに僕にいってきた。
「なに、もうすぐ博士の声が聞こえるさ。それか博士が再び肉声を出すかだな。どちらにせよ。もうすぐだ。この町は△市から切り離された。いままさに深淵に沈む船だ。溺れる者、適応する者、様々いるだろう。君はどっちだ? 生き残りたければ、こちら側になりなさい。わかるかい? 認識だよ、認識。事実をいくら詳らかにしたところで、人類は事実だけで生きてきていない。人類は認識によって生きているのだ。認識を変えるんだ、犬飼游くん。振り返った過去にどれだけ整合性のあるものだとしても、君の認識が整合性を与えているだけかもしれない。それは現実とはなり得ない」
この老人のいっている言葉が理解できなかった。いや、理解できることは理解できた。けれど理解したくなかった。
「与えられた時間は短いぞ。いま、私がいったことを理解できたらここにいなさい。できなかったら三階のナースステーションに行きなさい。話はつけてある。住むところを与えてやろう」
「わかりました」
僕は部屋を出ようとした。
「さきほど君は才がない、といったが悪かった。君は大変な才がある。曾孫をくれてやりたいくらいだ」
そういって笑いながら僕の唇の傷を指差した。
「モノにしかかったな。惜しいな、惜しい。大変、惜しい。同じだ。君のお母さんと。お父さんをああしたお母さんとな。君は知らずに同じことをしている」
小馬鹿にしたような言葉だった。まるで高みから見下ろしているようだった。その言葉は心の奥のドス黒い部分に引っ掛かった。
樹は笑ったが、僕は冷めた怒りしかなかった。
こいつはなにか知っている。僕の知らない僕のみえない部分を知っているのだ。そして僕の知らないお母さんのことも知っているし、お父さんを▽町に連れてきたのだってこいつだ。
僕はそっとドアを開け「失礼します。それでは」と外に出ることなく、そのまま静かにドアを閉めた。
樹はもう僕は外に出るものと思っていたのだろう。すべてを把握しきった僕なんかよりも博士の死体と話す方が重要に違いない。彼は博士との会話に夢中のようだった。
僕はドアの前に立ち止まったまま、彫像のようにその場に立ち尽くし、樹と博士の死体を見守った。
樹は話した。しかし僕の目には一方的に死体に話しかけているようにしかみえない。
その言語はもはや日本語ではなかった。早口に流れるように、それはおおよそ口と喉で出せる音をすべて駆使して放たれる音だった。
すべてはこの狂った男の計算なのだろうか。
僕がこの町から出たことも、お父さんがおかしくなったのも、友人が行方不明になったことも、暴徒化した生徒も、それによって培われた僕の思考も感情も性格も、僕の知らない無意識下の行動すら。
僕はこの狂人の思うがまま動いていたというのか?
凶暴な感情が僕のなかに燻って渦巻いていた。それは次第に加速していった。僕は僕自身を取り返すためその加速してゆくその感情に身を委ねた。
目の前が真っ赤になっていた。
ごつごつ、と鈍い音が響き。拳に粘液の付着する感触があった。その音が鳴るたびに僕は僕自身を取り戻してゆくような心持ちになっていた。
ついに手を挙げることにも疲れ、拳が握り締め過ぎたせいで、指の関節が固まり開かなくなるくらいになった。荒い息に肺が焼けつきそうになった。
そして目の前には潰れ爆ぜた樹の顔面があった。
僕は我を忘れて馬乗りになり拝屋樹を無言で殴っていた。
爆ぜた樹の顔を見下ろしていると、不快さも凶暴な感情も消え去っていた。僕は自分自身を完全に取り戻したような気持ちだった。
立ち上がると足ががくがくと力が入らず、目眩がしたのでソファに手を置いてゆっくり深呼吸をした。
清々したのはいいが、動かなくなった樹を見下ろし、血塗れの手とジャンパーとジョガーパンツをみた。
このまま病院を出ることはできない、と思いポケットのなかを探ったが、あの大男の警官からもらったハンカチくらいしかなかった。ハンカチで拭くが白い布はあっという間に真っ赤なハンカチとなった。
当たり前だ。この返り血を拭うにはこの小さなハンカチだけでは足りない。
僕は疲れ、なにも考えることができなくなった。
とにかく衝動に任せ、大変なことをしてしまった。血塗れのまま逃げるしかない、とドアに手をやったが、鍵が掛かっていた。
そんなはずはない、とドアノブを回したり、鍵を探したりしてたが、どうやっても開かなかった。外から鍵が掛かっているようなのだ。
僕はどうしようもなく、ソファに座り、汗と血でべとつく身体のまま倒れるように横になった。
もしかしたら、このことを樹はわかっていたのではないか? そんなことを思ってしまった。
顔を滅多打ちに殴られ爆ぜた樹の顔には感情を示すものはなにもなかった。
僕は目を瞑る。
あれだけ不快だった死臭がまったく気にならなくなっていた。




