狐狩り・黒咲夜子
△市図書館で黒咲夜子は受験勉強に励んでいた。△▽の怪異から数ヶ月、髪は伸び勉強するときは邪魔なので無造作に後ろで結んでいる。いまの夜子にとって勉学こそがすべてといって差し支えのないと思えるくらい真剣に黙々とノートと参考書を交互にみていた。赤のセルフレームの眼鏡越しにみえる目は少しの妥協も許さない職人のようにノートにシャープペンシル、マーカーを走らせる。周囲も同様だ。シャープペンシルが紙を走る音が聞こえるばかりで皆、ノートやルーズリーフ、参考書をみている。その並べられた頭脳たちは様々な知識を必死に詰め込んでいるのだろう。
黒咲夜子は塾には通ってなかった。
自身は五年も行方不明でなおかつ記憶喪失だった。だから家族といっても、彼女にとってそれは家族を名乗る見知らぬ誰かだった。そのひとたちの子や姉として生活するのにどうしても違和感が拭えなかった。
だから大学に受験するにしてもできるだけ(親切な見知らぬ誰かに)迷惑をかけたくなかったためだ。
黒咲は必死だった。入学費も学費もいつか返さなくてはならない気がしていた。だが自分の将来のためにN経済大学には必ず入学しなければならない。
そのため塾に行ってない夜子は受験のためのノウハウもテクニックも知り得ない。だから参考書や教科書を隅々まで必死で勉強するしかないのだ。
だからスマートフォンに着信があることに気づかなかった。
たまたま文字を書き間違えて、消しゴムに手を伸ばしたときに、サイレントモードにしていたスマートフォンの画面が静かにフェードアウトしているのに気づいた。
手に取り、着信相手をみると夜子は立ち上がり、参考書やノートをバッグに突っ込んだ。そして椅子に掛けていた紺のダッフルコートを手にすると駆けるようにして図書館を出た。
外は寒く、少し震えたが、ダッフルコートを羽織るより、スマートフォンを取り出すと着信履歴から発信相手に折り返した。すると折り返しを待っていたかのように、相手はすぐに電話に出た。
「どうした? 雫」
しかし返事がない。
「おいおい、いつものテンションはどうしたよ?」
夜子はおかしいと気づいた。雫はいつもなら矢継ぎ早に話すし、この時間帯は勉強をしていることがわかっているので、もう少し遅い時間帯にLINEで確認してから電話してきていたのだ。
「いまどこ? すぐ行くから」
「△駅」
はじめて聞く消え入りそうな雫の声に夜子は「わかった」とらしくないほど元気な声で応えた。
しかし△駅行きの電車もバスもない時間帯だった。
夜子はダッフルコートを羽織り、マフラーを巻くと自転車にまたがってペダルを思いっ切り漕いだ。
拝屋雫は△駅の待合室でひとり座っていた。
待合室にはひとはなく、駅構内は帰宅するひとが右へ左へ足早に歩いていた。
雫は拳を握り締め強張った身体で「ぶっ殺す」と呟いていた。他にも口汚い言葉をいっていたが、それは殺意や悪意ではなく、そういう言葉を使わなければなにかが裂けてしまいそうだったのだ。
そうやって自身を支えていた。
彼女は霊能者として天才だった。
父親の礼が霊能者で拝み屋として占いやお祓いをして生計を立てていた。
幼い雫には父親がなにをやっているのか、何者と対峙しているのかがすべてみえていた。教えられずとも悪霊も精霊も化生も鬼も、その姿をはっきりと捉えていたのだ。
神宮寺晶とはまるで違っていた。
拝屋雫には理解者も指導者も存在したのだ。
円周率を学校で習っているときにすでに拝屋家の真言、呪文を習い、アクリル絵の具で遠近法を習っているときにすでに注連縄、紙垂も呪符もつくれた。
雫のいっていることを父親は理解できたし、また父親がいっていることを雫は理解でき習得できた。
現世のものよりあちら側の力にふれていた。だからだろうか、生理になるかならないかの頃、巫病を患い、髪も眉も体毛の一切が白化した。
医者もわけがわからなかったし、雫は戸惑ったが、その答えを拝屋家は知識体系の一部として知り得ていた。
だから雫は自然にそれを受け入れられたのだ。
それどころか周囲を自分より下と見下すくらいに特別な存在だと思えた。それは他人とはあきらかに違う自分への防衛本能だったのかもしれない。
雫は力があり、みえない者を祓えた。またそれは自分や父親にしかできないことだった。しかしどんなに力を振るっても誰の目にもそれはみえないのだ。
孤独だったが、同時に誇らしくもあった。
誰にもできないことを彼女は行えるのだ。彼女の存在意義は霊能とともにあった。この力を父親に隠れてネット上で必要なひとに使って感謝をされたりもした。拝屋家の技と雫の霊能は霊に関することなら、ほとんどすべてを解決できた。
しかし問題が起こった。あの瓶のことだ。
あの瓶のなかの何者かに雫は自分を奪われかかった。拝屋家の知識にもない存在で雫の力も意識もねじ伏せられた。だがその存在はなんの偶然か消え去った。雫は対応を考えていた。それを今日発揮するはずだった。
しかしまたねじ伏せられたばかりか、それに悦ぶ自身が存在したことへの戸惑いがあった。昂りに昂り、やっとのことで抑えられたが、それは術でも霊能でもない、口ではいえない浅ましい行為で静めたのだ。それどころかあの存在との一体感さえ感じはじめていた。
再び昂りが起こる気配が身体のなかに燻ぶっていた。次はもう抵抗できないだろう。あれに再び会ったら終わりだ。
そんなとき肩に何かがふれた。
雫は悲鳴をあげた。目を瞑り手をばたつかせた。
自分は天才だと思っていた。凡人とは違う存在だと。けれど負けもするし、支配もされるのだ。気高いと思っていたが、浅ましく卑しい存在なのだ。
なにもかも怖かった。また手首を掴まれた。雫はさらに身を強張らせてしまった。
「ちょっと! あばれんな、雫! 私だ、私。黒咲夜子だ!」
雫は息を乱し、ようやく目を開けるとそこには赤いセルフレームの眼鏡にいささか古いダッフルコートを着て、髪を後ろで結んだ黒咲夜子がいた。髪が少しぼさぼさだし、眼鏡が顔から落ちかかっている。そして額に汗が光っていた。
夜子は眼鏡を直し、手ぐしで髪を梳かしながら「ふぅ」とため息を漏らし「どうしたん? 話、訊くよ」といつもと違う雫に対していつものような調子で訊いた。
「あ、ああ」
雫はしばらく言葉にならなかった。なにを話したらいいのか、どう説明したらいいのかわからなかった。
ただうつむいて自分の足をみるしかなかった。
「雫はイタリア行くじゃん? 私はそんなツテも頭もないからさ。いま受験勉強してんだけどさ……」
夜子はいつもと違う雫に対して大学受験について話はじめた。外見は十七歳だが戸籍上は二十ニ歳で手続きが面倒だったとか、行方不明者だったということで色々特例が受けれたこと。いまだ家族のことすら思い出せず、親や妹たちに気を使ってしまうこと。このままなにも思い出せなかったらどうしよう、という不安。普段いわないことを夜子は雫に話した。雫は俯き、訊いているのか訊いていないのかすらわからなかったが、夜子は話した。
「まぁ、いつか私にいったじゃん。一緒に拝み屋やろうってさ。あんたがお祓い。私が経理って。あれ、結構、マジに受け取ったんだ。つまり私がN経済大学目指しているってそういうことだから」
夜子がそういうと雫は「ありがとう」と消え入りそうな声でいった。
夜子は待合室にある自動販売機に行き、ジョージアのエメラルドマウンテンの缶コーヒーを二本買って一本を雫に渡した。
「なんで山なん? 私、紅茶がいいんだけど」
雫はあたたかい缶コーヒーを両手で暖を取るように掴みながらいった。
夜子は缶コーヒーのエメラルドマウンテンのことを山と称していた。ふたりの間ではこの缶コーヒーは山なのだ。
「ん? 私が山好きだから。あとそうやって私に声を聞かせてくれるんじゃないかって思ったから」
いたずらっ子のように夜子は笑いながらプルタブを開け、熱く甘く濃いコーヒーをゆっくり啜った。
「犯された」
その言葉に夜子は驚き「大丈夫?」とおろおろと雫を気遣った。
雫はウィンドブレーカーのジップを下ろし、首筋につくられた小さな内出血の痕を夜子にみせた。
「大丈夫、キスマークだけ」
そして、自分が幼いときから霊能に優れていたこと。それに自惚れ、いかに傲慢だったか、自信家だったかを話した。いつもなら霊的なことをいうと眉をひそめ面倒くさい顔をする夜子が真剣に雫の話を訊いていた。
そしていかに負けたか、上になって覆い被さられて無力だったこと。身体の力が抜け、なすがままになり、首筋にキスされたこと。突然現れた阿田大輝に助けられたこと。酷い目にあったはずなのにそれに昂ぶってしまったこと。
「私は性的には女だけど、おそらく男なんだ。代々、拝屋は男系だったらしいし、お祖父さんが曾祖父さんと喧嘩別れしたときに呪ったと思うんだ。拝屋家が滅ぶように。自分に対抗できる力ある存在が生まれないようにって。けどお父さんがなんとかして呪いを祓ってお母さんから私が生まれた。でも呪いは根強かった。本来、男として生まれるはずだったのに、私は女として生まれたんじゃないかって思っている。心当たりがあり過ぎて……あと、夜子は気づいていないかもしれないけど、私……」
「神宮寺晶さん?」
「そう」雫は驚き夜子をみた。いつもなら真剣な話は茶化すか、はぐらかすのが常だった夜子が、いまは落ち着いて自分の話を訊いてくれていることに雫はありがたさを感じた。
「ごめん、夜子はそういうこと鈍いと思ってた。だから……あの怪異、犬飼游と名乗った男に上に乗られて、キスをされて、なんであんなに昂ぶってしまったんだろうって。私はどちらなんだろうって。男か女か。人か怪異か」
夜子はなにかいいたそうに口を開いたが、その気持ちは単純な慰めでしかないような気がしたのか。結局、無言で雫の話すままに任せた。
「トイレで、あの犬飼游を思い浮かべて、乱暴を受け入れた自分を想像して、ひとりでシてしまったんだ。いつもなら神宮寺さんを思い浮かべながらなのに。比較にならないくらい昂ぶって……」
そのときあたたかく柔らかいコーヒーの味が雫の唇から滑り込んできた。歯と歯の間にも滑り込む。雫の眼前に夜子の顔があった。
夜子の唇が雫の唇に重ねられ、雫の唇から離れた。夜子の唇は雫の頬を伝い、顎、首筋へと這い、犬飼游のつけたキスマークの上からまたキスを交わした。
雫は声を押し殺し、いま夜子が自分にしてくれていることが信じられなかった。あたたかい唇が強く、自分の首筋に強く吸い付いているのだ。夜子の息と頬が雫の首筋に熱く感じられた。
目を開けると、ここは駅の待合室だ。人目と夜子の行為との差異に羞恥と悦びでどうにかなってしまいそうになり、引き剥がそうと手を伸ばしたが柔らかな夜子の身体を手のひらで感じると、もうどうにもできず、どういうわけか目から涙がこぼれた。
チュッと夜子の唇が雫の首筋から外された。
あたたかい唇が首筋から離れ、熱い粘液が外気にさらされ冷気を感じた。
「上書きてやつ?」
夜子は手で持っていた眼鏡をかけ直した。
そして指で自らの唇をそっと撫でると赤い糸のようなものを雫にみせた。それは長く待合室から駅の外まで続いているようにみえた。
それがなんであるか雫にはわからなかった。そしてそれは目の錯覚だったかのようにすぐに消え去った。
雫は赤い糸が消え去るのを見終わると、夜子の顔をみた。そしてそれがいつもの夜子でないことに気づいた。
いつも自信なさそうで、でも必死で、ぎこちない笑顔で……でも雫を友達として受け入れてくれている夜子ではなかった。
いま目の前にいる夜子は落ち着き、余裕もあり、まるで雫を守るべき歳下のようにみて微笑んでいた。
「……あなたは、黒咲夜子?」
雫は自分自身の言葉ながら間の抜けた言葉だと思った。夜子はその言葉に微笑みは消え、落ち着いた雰囲気はなくなった。
「そうだけど……えっと、まぁ、なんでこんなことをしたのかといえば……」
さっきまでの余裕は消え、自分がなぜそんなことをしてしまったのかわからず慌てているようだった。
その姿はいつもの自信のない内気な黒咲夜子そのものだった。
雫にはさきほど春に夢でみた二十ニ歳の黒咲夜子が帰ってきたように思えた。少なくとも雫の知る十七歳の夜子はこんなことはしない。あのキスは夢でみた二十ニ歳の夜子の気配を感じられた。
「とにかく、少しは元気出た?」
雫の心にあったさっきまでの不安も恐怖も謎の一体感も薄れていることに気づいた。
それはキスだとか見知らぬ赤い糸のせいもあるかもしれないが、それよりは以前、冗談交じりに一緒に拝み屋をやろうと誘ったことを夜子は真剣に考えてくれていたことが嬉しく心強く感じられたせいかもしれない。
「うん。少しは」
雫の返事に夜子は胸を撫で下ろした。
きっと二十ニ歳の黒咲夜子は少しずつこちらに帰ってきている最中なのだろう。足音は確実に近づいている。




