狐狩り・阿田大輝 #3
阿田の渾身の蹴りは確実に犬飼の内臓に強烈な打撃を与え、肋骨にひびくらいいれたはずだった。それなのに赤い糸を追って駆け出した阿田がいくら追っても追いつけないばかりか、後ろ姿すらみつけられなかった。
だが確実に赤い糸は犬飼と繋がっているらしく、特殊な海洋生物が海を漂うように宙に浮いている。阿田はそれを道標に犬飼を追った。
駅前の街灯に照らされた飲み屋やカラオケ店、そしてイオンやイエローハット、セブンイレブンを通り、右に曲がるとアパートがいくつかあり、その先は街灯の光が届かない夜の帳が、田んぼを暗く覆っていた。その闇夜に赤い糸がどこまでも続いている。
商業施設や集合住宅と田んぼの間にある舗装道路の暗闇を当間隔に街灯が照らされ、赤い糸が続いているのがわかった。それを目印に阿田は駆けていった。
次第にあたりは霧が立ち込めてきた。それは湿度を含んでいない奇妙な霧だったが、阿田には見慣れた風景のように平然としていた。そしてますます走る速度をあげた。
その霧のせいで辺りは暗いところは尚暗く、街灯の灯りは尚明るく感じられた。
その霧のなかで遠くに赤とオレンジ色の光が何個かみえた。そしてそのいくつかは明滅を繰り返していた。
それは軽バンのリアライトとハザードランプ、パトカーの赤色灯だった。
パトカーを側道に止め、軽バンに乗っているおじさんと話している警察がふたりいた。
どうやら一時不停止か速度違反を取り締まっているらしいが、おじさんも警官ふたりも走っている阿田に気づくと真っ直ぐに阿田をみつめていた。
阿田はこの連中は常人ではない、と覚って真言を唱えやり過ごそうとした。
「ちょっと君」
警官のひとりに呼び止められた。
阿田はこれは存在するようでいて、存在しないなにかだと認識した。いま自分は現世から一枚下のレイヤーに移動しているようなものだから、現世での存在感は薄いはずだ。それがありありと存在感を示し、なおかつ阿田の存在をはっきり認識している。この警官は現世から離れた存在だろう。
だが確証は得られない。もしかしたら無視を決め込めば、あちらはこちらが存在を認識できないと思うに違いないと、そのまま通り過ごそうとした。
「彼を追うのをやめなさい」
やり過ごそうとした阿田は驚いた。
なぜこちらの存在ばかりか目的まで知り得るのか、と。だがそれがいけなかった。
「修行が足りんなぁ」
足を止めてしまった阿田の目の前に警官がいて、阿田の顔を覗き込んだ。
身長は阿田より高く、やや腰を屈めているから、身長は一九〇くらいだろう。身体も顔も手も足も大きく、その目は暗くツリ目でどこか蛇を思わせた。
「ふむ」
阿田は真っ直ぐその警官を見返し、頷いた。
確かに動揺してしまった。阿田は自らを未熟者だと思った。現世をやや離れたこの存在位置で視認するばかりか、自身の行動を理解されたとしても平然と受け止めねば、と眼前の怪異を無視して反省した。
ただ、この警官はこの境地と位置に存在する阿田を視認できるだけかもしれない。対応すればこの警官の姿をしたなにかと同じ位置に移動することにもなる。
霊感のないひとが怪異に対峙したとき無意識的にする行為が、「あれは見間違いだ」「これは目の錯覚だ」と思いやり過ごしてしまう。これは無意識の防衛本能なのだろう。あちら側に行かないための簡易的で的確な方法のひとつだ。
だが阿田は霊能者であった。
「あなた様は何者で?」
「そういう、御坊は何者で?」
「いやいや、まずは話しかけた方が名乗るのが礼儀でしょう」
「それはそうですね。私は……」
真言や術式に頼らない封印だった。
境界線を引く行為だ。あちら側に規則をつくる。それはあちら側とこちら側にわける行為だった。素直に相手の調子に合わせて、あちら側に行くのではなく、双方の立ち位置を明確にし会話で相手を知ろうとした。
だが警官はなにか言葉を発するが阿田には聞いたこともない言葉だった。
阿田は「なにをいっているのかわかりません」と手短に話した。
警官はあきらかに戸惑っていた。
あちらも阿田の言葉がわからないようだった。
「ふむ」
阿田は頷いた。
怪異がこれほど近くに来ているのに、おどろくほど容易く存在位置が変わったのだ。普通ならお互い名乗り、いくつかの問い掛けがあって成立してゆくのだが、名乗り途中で早くもお互い干渉できなくなった。つまりは△市の封印は確実に効果がある、ということだ。もしなにもなければ、もっと複雑なやりとりをして相手の出方をうかがわなければならないし、結局、真言や除霊、お祓いの類に頼らなくてはならない場合も多い。
現に阿田は何度もこのような出来事に出会ってきていた。録画できるものか興味があったので、録画しYouTubeに動画をあげたこともあるが、やはり周囲からは観えないものだった。だが一部の視聴者からはなにか存在を指摘する者がいたので面白いものだ、と阿田は感心したことがあった。
試しに警官の肩にふれようとしたが、手は空を切りそこには夜闇が存在するばかりだった。
しかし次の瞬間後悔した。
赤い糸がその場、その空間でふつりと消えていたのだ。
必死に赤い糸を追っていたからいつの間にか封印を跨いでいたのだろう。そして警官の姿をしたあちら側の者に対応してしまったせいで境界線が明確となったのだ。
あの警官に通常の対応していたら赤い糸をたどって△市の裏にある▽町へ行けたのかもしれない。
偶然を必然に行えるわけもないし、ましてや怪異に再現性があるわけでもない。たった一度のチャンスをふいにしたかもしれない、と後悔しつつも、もうひとつの可能性に賭けた。
阿田は赤い糸を掴んだ。
それは人肌よりやや熱く、力を込めた筋肉のように固く、握り込むとかすかに脈打っているのがわかった。釣り竿に大魚が掛かったかのような手応えを感じる。
これを辿って行くしかない、とやや不快な握り心地の赤い糸をつたってしばらく歩き始めたが、ふっと後方から張りがなくなるのがわかった。
「さすがに気づいたか」
阿田は△駅で犬飼に押し倒され、無す術もなく、耐える拝屋の顔を思い出した。
拝屋が赤い糸を切ったのだろう。
だがあちら側からの張りはまだあった。これを手掛かりに、と手繰っていったが、脈がかすかになっていき、完全に止まるとふつりと張りがなくなり、赤い糸は暗闇にはじめから存在しなかったかのように消えてしまった。
「ふぅ」
阿田は落胆のため息を漏らした。
狐狩りは失敗に終わった。
犬飼游は戌井勇とは違った。年齢の違いもあるだろうが、あれより遥かに怪異側の存在だった。
一息つくと〈組織〉に報告しようと、まずは現状を整理するため周りを見渡した。
赤い糸を伝ってきた先は暗い夜闇が覆う田んぼの農道で目の前にはあの発掘現場があり、その遙か先には伊夜日子山がみえていた。
安易に点と点を線で結んで関連性をもたせるには早計だが、阿田はなにかを感じていた。
そして〈組織〉に報告するためにスマートフォンを開いた。
LINEアプリを開こうとしたときに時計に目がいった。△駅にいたときは夕方を少し過ぎたあたりだったが、もう深夜に近い時間帯だった。
唐突に電話が鳴った。
スマートフォンには相手の名前もなく、電話番号も表示されていなかった。こんなことは阿田にとってはじめてのことだった。
「私にとって、こちらの方が怪異だな」
対処法が思い浮かばない。出るしかないのはわかったし、電話の発信相手もなんとなく察しはついていた。
「狐狩りは失敗しましたね」
案の定〈組織〉だった。
「ええ」
阿田は気後れなく短く答えた。
「貴方ほどの実力者がなぜ?」
その声色は詰問に近かった。少し落胆も感じられた。
「封印です。異界の入口まで行きましたが、不意の怪異に阻まれまして、それ以上は行けませんでした」
簡潔にまとめて話した。警官の話をしたところで冗長になるだけだし、〈組織〉が理解できるとも思えなかった。
しばらく沈黙が続き「再度、追うことはできますか?」といった。
「封印は強固です」
「でも入口までいけましたよね?」
どう説明しても雲を掴むような話にしかならない。もし仮に封印を無視できる者がいるとしたら、霊感がまるっきりなく現世を見限っている者、常にうわの空で現実離れした妄想に囚われている者くらいしか思い浮かばなかったが「それ以上は優れた霊能者でも無理です」と答えた。
嘘ではない。霊感でみえるはずのないものをみるものは、ないはずの境界線がはっきりとみえるし、怪異を現実ではなく、きちんと怪異と認識できるからだ。
一方〈組織〉は阿田が嘘をいっているのかどうか審査していた。この△▽の怪異を完全に終息させたのかはっきりとさせたかったからだ。その虚実を見破るシステムによれば阿田の言葉に嘘はなかった。
「こちらからは行けないのになぜ狐は行けたのか?」
「狐だったからでしょう」
阿田には正直わからなかった。
そうとしかいえない。犬飼が上人様と繋がりがあったことも拝屋につけられた赤い糸のことも伏せた。これらのことは阿田自身未解明だったし、説明したところで、余計に相手を混乱させかねない。そしてそれらのことが犬飼が計算によって起こせたことではないという確信があった。
「なにか隠していることがありますね」
「はい。まだ未熟者ゆえ、説明できない現象は多々ありました。ただ封印は有り難いことに強固です」
「そうですか。ですが私たちは狐を調べたかったのです」
「なぜ?」
「狐はこの件を、あちらの敗北を覆すための一手かもしれない。もしくは次の段階に推し進めるための布石かもしれない。様々な可能性を考慮しています」
「なるほど。しかし封印は強固です。いくら超常の力を持っていたとしても、今回の封印は公共施設です。神社仏閣以上に強固なものを一個人が破壊できるとは思いません。この封印が壊れるのは大震災か空襲くらいでしょう。いまのところは破られる類のものではない。非常に強固な封印です。あなたたちもそれを承知で△市を裏から支えたのでは?」
「そうかもしれません。ですが狐が現れた」
「△市UFO事件のとき異界から迷い込んだのではないでしょうか? そのときは異界側のなんらかの布石だったかもしれませんが、封印は間に合いました。巨大な支援もあったように感じます。あなた方〈組織〉とは違った支援が。私個人の見解ですが」
阿田は〈組織〉が情報を伏せているように感じていた。あるいは自身が腹を割ればあちらも情報を開示してくれるのではないかと頭をかすめていた。
匂わせてみたが〈組織〉は「狐が再びこちらに現れることはあるでしょうか?」と阿田の問いをはぐらかし質問してきた。
〈組織〉には阿田の他にも情報源はあるのだ。
「ふぅ、かないませんなぁ」
思わず阿田の地元の訛りが出ていた。
「狐は現れるでしょう。しかし異界はもうこちらを侵食しません。みたままです。あなた方はみえないからわからないかもしれませんが。例えるなら、もうあちらは穴の空いた船です。深淵に向かって沈んでいる最中です」
「その裏付けは?」
「他のみえるひとに訊いてみればいい。十中八九、私と同意見でしょう。一割二割は違うというひとがいるかもしれませんが、それはみえていないだけです」
「情報提供、ありがとう。おそらくは我々があなたに接触するのはこれで最後になると思います。では」
「ちょっと待って下さい」
「何でしょうか?」
「最後ならお訊きしたいのですが、あなた方は何者か教えていただけませんか?」
「それは……三柱三神主の播磨陸さんが仰ったとおりです」
そういうとぷつりと電話が切れた。
阿田はもしかしたらと、着信履歴をみたが履歴は残っていなかったし、LINEのアカウントもなくなっていた。まるではじめからなにもなかったように。
「まったく私にとってこちらの方が原因不明の怪異だ。必要な番号やアカウントは消えてないだろうな……それにしても〈組織〉が宇宙人だとしたら、やはり宇宙人には霊感がないんだな」
いままで腐れ縁のように仕事を回してくれた〈組織〉がいなくなって、清々した気分といくぶん寂しい気分が入り混じった心持ちだった。しかし気の張りが緩んだことで阿田は自分が空腹だということに気づいた。
「うむ。晩御飯まだだったな。まぁ、修行だ、修行……でも神宮寺家になんていおう。日が暮れたら帰るっていってたのに。もうこんな時間」
居候している神宮寺家まで十五キロくらいはあった。もう終電はすでに過ぎ、タクシーに乗るお金はない。歩けば二時間、走れば(阿田の脚力ならば)一時間。着くのが深夜ともなれば今夜は帰らないと思われ、家の鍵は掛けられていることだろう。
阿田はこの日、はじめて慌てた。




