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匣の街  作者: Mr.Y
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夜の街・游と博士

 僕は拝屋雫を押し倒していた。

 いつかどこかでみた状況だった。あのときの続きだ。熱いキス、柔らかくしっとりとした首筋に舌を這わせる。僕のあの部分は熱く火照り、履いているものが煩わしいくらいだ。雫は僕の下で必死に抵抗している。僕は彼女を組み伏せ、服従させたい欲求しかなかった。彼女もそれを(いまは望んでいないかもしれないが)いつかは望んでくれるだろう。そうでなければ僕はただ暴力を振るっているだけになる。僕は彼女のことが好きなはずだ。だが彼女が好きだという表現が僕にはこういった暴力的な行為でしかおこなえない。

 彼女のことが好きなはずなのに、どうしてこんなことしかできないのか。

 頭ではこれはいけない行為だとわかってはいたが、僕の身体は僕に組み伏せられた彼女を貪っていた。

 僕の手は彼女のジャージのなかへと潜り込む。その白い肌を手のひらで味わいながら、ヘソから滑らかな下腹をつたい、柔らかな陰毛をわけ入り、太腿のつけ根にふれた。そこに彼女の本心があるはずだった。温かく湿った。しかしそこにあるのは温かく柔らかい、まだ熱を帯びていない男性性器だった。

 僕は驚いて、拝屋雫の顔をみた。

 しかし彼女は僕の知る拝屋雫の顔だった。彼女の精悍な黒い瞳が僕の瞳の奥を射抜き「ぶっ殺す」と叫ぶと同時に拳が僕の左頬を殴打した。


 目を開くと病院のトラバーチン模様の天井があった。

 僕はソファで寝ていた。左唇にある傷はまだ熱を持っている。そして全身余すことなく筋肉痛だった。あれだけ走り、また殴れば当然だろう。

 部屋を見渡すと、床には哀れな拝屋樹が顔を潰されていた。彼の手は僕の手を止めようとしたまま空中で固まっているし、博士は相変わらず優雅にエグゼクティブチェアに腰掛け、もう映ることのない瞳で天井を見上げていた。

 そんな場所であんな夢をみたにも関わらず、僕の男性性器はいつもの起床時と変わらない。この場でそこだけが場違いなことをしていた。

 いま何時か、気になったので壁掛け時計をみた。六時十分を示していたが、それが午前なのか午後なのかわからない。部屋の奥に一枚大きなガラス窓があるが、ブラインドをあげても空は薄暗かった。僕の目には朝にもみえるし夕方にもみえる。

 僕は再びソファに座って、ガラスポットの水をグラスに注いで飲んだ。常温の水だがかえってそれがいいのかもしれない。水分が身体のなかに染み渡る。

「どうしようか」

 口に出した言葉は無責任に聞こえた。当事者意識のない人間が責任ある人間に教えるときに放つ声色だ。

 少なくとも状況を把握し、第三者目線で当事者に解決を求める言葉だろう。まだ僕には冷静な部分があるということだ。

 まず状況整理だ。ここは病院の一室で博士の死体を椅子に座らせてある。この町の代表のひとりであり、教祖と呼ばれた拝屋樹は僕が暴力を振るって殺してしまった。

 部屋には鍵が掛けられて出ることができない。

 窓はいくつも大きなものがあるが、換気のためにわずかな隙間しかあけられない。(おそらくここが病院のため、病苦に絶望し投身自殺する危険性を排除するためだろう)

 そして、それ以上に決定的なことをしてしまった。

 僕は人を殺した。

 しかしそれは自分自身を取り戻すためだ。

 そうでなければ僕はこの狂人の駒として生きなければならなかった。

 だがそれがひとの命を奪っていいことではないだろう。

 それに狂人が本当のことをいっているという確証はあるのか?

 そのすべてが妄想で、その妄想が僕の人生に起こった出来事とたまたま一致していただけだとしたら? 僕が単純に勘違いしてしまっていたとしたら?

 嫌な妄想が次から次へと悪い方に湧き上がってきた。

 そんなことはない。僕はいいように操られ、手駒として自由意思のないまま、町から出て暮らした。しかし手駒として無価値と評価された。僕の意思も行動も僕自身のものでまた価値も僕自身が決めるものだ。それを取り返すために……でもやはり殺人まで行う必要はあったか? 犬飼游。その凶暴さはどこからきた?

 胃が圧迫され、さっき飲んだ水が逆流しそうになってきた。

 思い返せば町に戻ったとき、すでに夜だった。

 夜は夜の住人の時間だ。なんで僕はあの警官や軽バンの男に襲われなかったのか? むしろ大男の警官は僕に親切に接してくれていた。

 僕は……鏡が欲しかった。僕はいつの間にか第三成長期を終えたのではないか? あの警官のように。幼いときみた夜の住人のように。中高の同級生のように。拝屋樹のように。人類の枠から外れた存在になっているのではないか。

 部屋に鏡はなく、ガラス窓もぼんやりとしか僕の姿を映さない。

 僕は半狂乱となって、ドアを窓を壁を拳で叩き、あるいは蹴飛ばした。部屋のなかのひとつの嵐となって吹き荒れた。

 叫び声と騒音。

 部屋のなかのファイルも戸棚も机もめちゃくちゃになったが、それだけだった。なにも解決はしない。なにも起こらない。憂さ晴らしにさえもならない。罪悪も消えはしない。ただ部屋が散らかっただけだ。僕の体力は尽き、その場にへたりこんで散らかった部屋を眺めた。

 そんななか博士はただ口を開けて天井を見上げ、拝屋樹は顔を潰されたままだった。

 これだけ暴れても辺りは静かだった。

 誰もこの部屋には入って来ない。

 それにしても僕はどうしたというのだろう。

 身体をさわり、顔をさわった。感触では変化は感じられない。

 僕はどの方向に成長したのだろう。

 きっと人に近い容姿で、だが人類の枠からはずれた存在になっているのだろうか。

 時計をみると、もう八時を回っていた。 拝屋樹はこの町の重要な役職に就いているはずであり、そのうち誰かがここに拝屋樹を呼びに来るはずだ。 それまでに逃げなければならない。

「わかるかい? 認識だよ、認識。事実をいくら詳(つまび)らかにしたところで、人類は事実だけで生きてきていない。人類は認識によって生きているのだ。認識を変えるんだ、犬飼游くん。振り返った過去にどれだけ整合性のあるものだとしても、君の認識が整合性を与えているだけかもしれない。それは現実とはなり得ない」

 拝屋樹の言葉が急に思い出された。

 僕はゆっくりとドアに向かう。

 そうだ。外側から鍵が掛けられるなんてことがあるだろうか。ましてやここは院長室であり、応接室でもある。そんな重要な場所なら内側に鍵があるのが普通だ。

 僕は目を疑った。

 鍵は内側から掛けられている。

 僕は鍵を開けた。カチリと容易に鍵は開けられ、僕はドアを開けると普通に廊下があり、天井灯と足元の間接照明に照らされていた。

「僕はこの部屋に鍵が掛けられている、と思うようにしたのか……なぜだ」

 呟くとまた部屋に戻った。

 その部屋に散らかった様子はなく。ただ顔の潰れた拝屋樹と天井を見上げて座っている博士がいるばかりだった。

「私と話したい、そうだろう? 君の頭脳では認識できなかっただろうが、境界線にいた上人と話したはずだ」

 空耳だと思いたかった。そうでなければ僕も拝屋樹と同じく狂い始めているのではないか。

「やれやれ、教祖くんもざまあない。死を乗り越えるつもりだったのだろうが、一向にこちらに来る気配すらないではないか。まぁ、人類は少なくとも三日必要だったか。まだ結論づけるのは早いな」

 空気を震わす喉すら機能してないようにみえる博士の口からはっきりと声が聞こえた。

 僕は部屋に戻りソファに腰掛けるとガラスポットから最後の水をグラスに注ぎ、少し飲んで喉を湿らせた。

 僕は狂っていない。ただの空耳であり、聞きたい言葉を聞いているのだ。 

「教祖くんは君を神のみえない存在だと断じたが、私はそうは思っていないよ。長いスパンだといったじゃないか。海が山となり、山が海となるくらい待つのはなんてことはない。ただ、あのミシャクジはどういうわけか人類のいうことしか聞かない。私の言葉は聞こえないのか、聞こえているが、聞こえてないふりをしているのかわからないが、さっぱり無反応だった。だが大願は成就された。ミシャクジは私の死が望みだったようだがね。そんなに憎まれるようなことなどした覚えはないが……」

 博士の声は聞こえているが、以前聞いたときにはもっと多角的な意味が付与されていた。音も抑揚も意味も含めてそれは日本語であり、別言語とも聞こえるようでいて理解できた。意味が重層構造となり、まるで……そうだ。駅で聞いた拝屋雫の呪文に近かった。博士の言葉は呪文だった。けれどいま聞こえてくる声はただの言葉だ。これは心身とも疲労した僕の脳が作り出した声に違いない。

「ミシャクジはこの▽町と△市の軛を絶ち切った。もともとあいつは人類に頼まれ、この町を現世に浮かび上がらせた。そして今度は人類に頼まれ、この町を沈める。無意味なことだ。難儀なことだ。だがようやく私は帰れる。あとは町が深淵に沈むのを待つだけだ。もう君はどこへなりとも行くがいい」

 あのとき感じた圧倒的な畏怖も敬意も感じなかった。

 これは僕の頭の中でつくられた言葉だ。

 僕の知り得た知識(もしくは推理、想像できる範疇)でしか聞こえない。疲れているのだ、僕は。疲労が消えればこの声も聞こえなくなるだろう。

「少なくとも君はそう『認識』する」

 グラスの水を一気に飲み干し、立ち上がった。

「罪悪感もない。やるべきことは自分の居場所を探すこと。君はそう『認識』する」

 ▽町でひとを殺してしまった。しかもこの町の重要人物を。僕は捕まるだろう。いや、捕まってたまるか。夜の住人が支配するこの町で捕まったら生きてはいられないだろう。逃げるしかない。どこへ? とにかく、いまは外だ。

「そしていつか深淵と君は結ばれる。いわば君が▽町となる。しかし君はそれを知ることはない。君はそう『認識』する」

 どうして僕は▽町に逃げて来たのだろう。結局、△市に戻らなくてはならない。無意味なことだし、難儀なことだ。とにかく逃げなければ、僕にはもう罪悪感も後悔もなかった。

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