狐狩り・拝屋雫
日も傾き掛かったY村駅は菊祭りからの帰りのひとで混んでいた。
Y村駅は田舎の駅だ。いつもなら並ぶこともなく乗客といえば学生か社会人が数人だけだったが、この日はいつもと違う光景だった。
拝屋雫はウィンドブレーカーのポケットに手を突っ込み、線路の向こう側の稲株が続く田んぼを眺めながらスマホをいじるわけでもなく電車を待っていた。それはなにか物憂げな眼差しで、視線の先の田園風景をみているのでも、また駅周りの色づく紅葉をみているふうでもなかった。
「結局わかってもらえない」
雫は心のなかでつぶやいた。
彼女の人生においてこの言葉は日常であったし、あきらめてもいた。自身が理解されないことを彼女は理解していた。けれど同じ年齢の霊能者が目の前に現れたとき期待してしまった。 晶なら理解しあえるのではないか、と思っていた。
ただ彼女とは学校内の立ち位置が違っていたので話すことは少なかった。ただ同じ霊能者ならもっと話したかった。またわかり合えるとも思っていた。だからララに晶の取材をしたいといわれたとき「学校内の立場じゃない拝屋雫と神宮寺晶として話せるのではないか」と内心期待し舞い上がりもした。
雫は、晶の言葉にできない戸惑いや思いだとか、霊的領域で不可逆な欠損が起こり、それに対して苛立っていたことにも気づいてはいた。それについての相談に(雫には話せることは少なかったが)のってあげることもできるかもしれないとも思っていた。
けれどそんな雫の思いとは裏腹に、神宮寺晶に「私、雫と話したくないんです」と直接いわれたのが少なからず傷ついた。
しかし晶は▽町の霊的な封印において重要な役割を担っていたのだ。それは並大抵なことではない。霊的な欠損も心体の疲労も想像できないくらいだろう。だからいまはそっとしておいたほうがいいのだ、と雫は思うようにした。けれど雫にある晶に対しての特別な気持ちが、その思いを阻み、ただ恨めしい感情だけが心に擦り傷をつくっていた。
「まぁ、いいか」
誰の耳に入ることもない呟きは駅のホームの雑踏にかき消される。
このあきらめは雫にとってはいつものことだ。
自分のできることをできる範囲でやるしかない、と割り切っていた。ただはじめて理解し合えそうな人間に会えたのに、なにもない寂しさはやはり割り切ることはできなかった。
そんな状態で雫は△市行きの電車に乗った。
だからだろう。いつもなら気づくはずのことを雫は気づかなかった。ふと心の内の寂しさから我に返ると電車内にひとはいなかった。ただガタンゴトンと規則正しく車体がリズムを刻むばかりだ。
確か電車内は菊祭りからの帰りで混雑していたはずだった。途中の駅で乗客が半分に減り、ようやく座席に座れたのは覚えている。しかし気づいたら誰も乗っていないのだ。
いつ、どこで乗客が降りたのか記憶になかった。
そして窓の外はもう日が暮れており、夜闇の向こうで街灯の灯りが朧げに光っている。どうやら靄がかかっているようだった。
雫はガラス窓に人差し指を走らせる。そして親指に擦り合わせ、その湿度を確かめた。しかし指はかさついたままで、湿気がない。雫は深刻そうに眉を寄せた。
異世界に迷い込むとき「そのとき靄がかかっていた」あるいは「霧が出ていたときだった」と語るひとがいる。それはなぜなのか雫は知っていた。
その霧や靄の正体は大気の湿度や寒暖差から発生する水蒸気などによるものではない。それはありとあらゆる境い目が視界的にも存在的にも曖昧になり始めている状況なのだ。
おんあびらうんけんばさらだとばん。
雫は慌てることなく拝屋家に伝わるもっとも重要視されている真言を三度唱えた。
すると電車はゆっくりと止まり、ドアが開いた。そこは暗い駅のホームだった。辺りには駅構内だというのに靄が立ち込めて、その奥の暗い駅構内にも続いていた。むしろ靄の根源は駅構内から発生しているように感じられた。
雫はひとり頷くとそこで降りた。
電車はドアを開け放たれたまま、煌々と辺りを照らしながら、そのまま停まっていた。
雫は小声で真言を唱えながら暗い駅構内に躊躇うことなく歩み進んでゆく。常人には真っ暗闇のはずだが雫の目には薄明かりくらいにみえていた。それは視力ではなく、霊感による視界なのかもしれない。
超常の出来事にも臆することなく進んでいく姿には先程電車内での内省的な少女の姿はなかった。むしろ逆に生き生きとしていた。
ただ超常を正すことが雫の血に刻まれているようであり、この場こそが雫の生きている意味ともみてとれるようでもあった。
もし仮に霊感がなく、彼女のいままでの人生を知らない者がいたとしよう。そしてもし、その者がいくばくかの詩心かあったのなら。真っ暗闇をなんの恐れもなく歩く彼女のことを、『夜の住人』と名づけたかもしれない。
雫は階段を上がり通路を歩き、また階段を下がる。
雫にはその場に見覚えがあった。
異世界なのだろうが、その構造や壁に貼られたポスターなどをみる限り△駅だった。そのポスターのなかにはY村菊祭りのものもある。時間系列の狂ったパラレルワールド的な異世界でもないらしい。
若い霊能者である雫だったがこのような経験はいくらかあった。
師であり父でもある拝屋礼の言葉を思い出す。
「その場は因果や経験は役に立たない。点と点があっても線で結ぶな。そこは場当たり的な対応が正解だ。こちらの世界の理屈で理解しようと足掻けば足掻くほど理解できなくなり、あちらの世界に取り込まれる」
雫は行動範囲こそ狭いが、親に黙ってネット上で依頼をこなしていた。こういう場合の知識もあり、対応もできていた。
単純だ。超常なら正せばいい。邪なものがあれば祓えばいい。ひとがいるなら助ければいい。そのための力も方法も雫は身につけ学んでいた。
駅構内の中央、鳥居のモニュメントをくぐって、地域物産の店舗があり、新幹線への乗り場に続いているホールへと来たときだった。
だん、だん、と足踏みする音が聴こえた。
雫は鳥居のモニュメントにそっと身を隠すと「なんでだよ! なんで道が塞がっているんだ!」と怒気のはらんだ声が、一際濃くなっている靄の奥から聴こえた。
小さく真言を唱えながら目を凝らすと、雫と変わらないくらいの少年が床を蹴っていた。
その場所は周囲の床より真新しい。
そこに少年のいう道があったのだろうか、と雫は考え、また思考を掻き消した。ただ目の前の怪異の根源らしき少年の姿をした者を祓えばいいだけだ。
その少年は長くなった髪を後ろで留め、痩躯をサイズの大きな紺色のドッカージャンパーを羽織り、下は淡いグレーのジョガーパンツに黒コンバースを履いていた。
ごく普通の格好であり、いままで雫が遭遇したことのある者(着物や袈裟を着た者、獣に近い者、UFOクラゲなど)に比べれば危険度は低いようにもみえた。
おんあびらうんけんばさらだとばん。
指で印を切りながら真言を唱え、鳥居のモニュメントから身を現す。
少年は驚き、雫をみると「チッ!」と舌打ちし掴みかかってきた。
雫は簡単な護身術なら使えた。
拝屋家に伝わる古流の柔術を父から習ったが、それは霊能や知識に比べ、あまり熱心ではなかったし、必要性も感じたこともなかった。しかしこのときもう少し真剣に習っておくべきだと後悔した。
「……かけならびに日天とのさを以もってさし上四羅諦のへをはりこしきのへを持ち本の坐位氏所い本のさしろい送り届け、其の祈念梵論、そわか」
向かってくる少年と距離を取りつつ、印を切り終え、真言から一気に呪文に切替え、素早く唱え終わった。しかし少年は消えるどころか、一気に距離を詰めて雫のジャージに掴んできたのだ。
雫にしてみれば信じられなかった。
目の前の怪異は肉を持っているのだ。
雫は想定外の出来事に以前習っていた俄仕込みの護身術で少年を投げようとした。しかし、力で及ばず、俄仕込みの技に驚いた少年は趣味でやっていた格闘技の技を反射的に繰り出していた。足を掛け雫を転ばす。
少年も慣れない技の反動でバランスを崩し、同時に転んだ。
下になった雫は受身こそとれたものの少年の体重に押し潰される勢いに後頭部を少し打ってしまった。
そのせいで反応が遅れた。
「ごめん。でも印や呪文は止めてくれ。お願いだから見逃してくれ」
少年は雫に覆い被さり、両手首を掴んで抑えつけていった。
「僕は犬飼游。君は……」
游は名乗り、下にいる雫の顔をみて驚いたようにいった。
「拝屋雫、か?」
声色に悦びが感じられた。
雫は信じられないことばかりで困惑していた。
この怪異は肉があるばかりか、言葉を使えるし会話もできる。しかも理論整然とした知性を感じさせた。あきらかにいままで雫が対峙した怪異とは違った。
顔も同じ年頃の男子であり、見覚えがあるようでもある。けれどその整った顔には憎々しい思いが沸き立ってくる。そしてなぜ自分の名前を知っているのか不思議だったが、次の瞬間叫んでいた。
「離せ!」
「お願いだ。僕の話を訊いてくれ」
雫は游が印や呪文を嫌がっていたことを思い出し、真言を唱えようとした。しかし、その口に温かく柔らかなものによって塞がれた。游の唇が重なったからだ。その唇の温かな濡れた感触がふれた。
それは一瞬の出来事だったのだろう。しかし、雫には長く感じた。鼓動が早まり、力が抜ける。心底気持ち悪いと思った。思おうとした。唇を拒絶する瞬間、目に入ったギラついた游の目に震えた。
唇を拒絶された游は吐息を吹きかけるように、首筋へと滑り、その中央に吸いつくような熱いキスをした。
目を閉じていた雫の視界が真っ赤になり、全身から力が抜けた。そして抑え込んでいた吐息が、零れるように甘い声となって漏れた。
雫はその自身の声を信じられず、また嫌悪した。歯を食い縛りその声を拒絶した。
しかし、游はさらに熱くキスをし、雫の声をうながしてくる。雫は必死に耐え、つむった目から涙が滲む。
雫はこんな超常の場だからこんな状態になるのだろう、と思おうとした。だから頭の中まで靄がかかったようになるのだ、と。境界線と境界線が曖昧になって少年の欲望が自分の心に浸潤してしまうのだ、とも。
游と雫の重なりあった胸越しにふたりの鼓動が重なり合う。
ふいに游のキスが弱くなり、柔らかく温かな唇が雫の肌から離れてゆく。唾液が外気にふれ、冷たくなる。そこに一抹の名残惜しさを感じた瞬間、また游の熱いキスが再開された。以前より強く。雫を捻じ伏せるかのように。
雫はふいのことに抵抗する気持ちも吹き飛び、思わずとろけた甘い声を上げてしまった。
そしてそれは唐突に終わった。
游が吹っ飛んだのだ。
そのとき雫が聞いたこともない音を聞いた。
まるで骨に包まった肉をバットで叩くような音だ。続いてそれが落ちて床に叩きつけられるような音がした。
「三界の狂人は、狂せることを知らず。四生の盲者は、盲なることを識らず。生まれ生まれ生まれ、生まれて生の始めに暗く。死に死に死に死んで、死の終わりに冥し」
ユニクロかワークマンでみたアウトドアウェアをきた体格の良い坊主が立っていた。この男が游の横腹を蹴り上げたのだろう。
「修行が足りないな。巫病持ちのお嬢さん」
「放浪阿闍梨・阿田大輝!」
雫はその男の顔をみて叫んだ。霊能者界隈で今もっとも有名な男のひとりが立っていたからだ。
そしていつの間にか周囲の靄もなくなっており、そこはひとが疎らにいる駅構内だった。
「怪我はないか? お嬢さん。あとこの件は私に任せてください」
阿田はそういうと目を瞑り、なにか唱えると「こっちか……では」と雫に軽く会釈し駅から出ていった。
取り残された雫はゆっくりと立ち上がった。
数人が雫の方を怪訝そうにみたが、躓いた女の子が立ち上がったのだろう、というくらいにしか感じなかったかもしれない。
立ち上がってみたが後頭部を少し打った他は痛い箇所もなかったが、ただただ熱かった。
雫の心臓が胸骨を裏から叩いているように高鳴っていた。そして首筋には熱を持っている痕も第二の心臓のように強く脈打っていた。
雫はトイレに行くと鏡に首筋をみた。
そこには小さく楕円形に内出血していた。
「……キスマーク、か」
そこにふれると唾液が冷たく付着していた。とろりとした感触がその周囲にあった。
どくん、と心臓が一際鼓動すると雫は個室トイレに駆け込み、鍵をかけた。
游の荒い息遣いが雫にうつったかのように、雫は息を弾ませジャージの紐を解くと、自らを穢そうとした唾液のついた指を震わせ、強烈な背徳感と首筋の熱に突き動かされるまま下着の中へと滑り込ませる。
丁度、電車の発車ベルが構内に鳴り響いた。
雫もそれに覆い隠すように、これまで堪えていた声をあげた。
そのなかで自身の孤独も晶への憧憬もあきらめも、忘れ耽る。ベルが鳴り止むと声を押し殺し、歯を食いしばった。少し身体が痙攣すると。やがて静寂が個室を満たした。
遠くで乗客らの喧騒が聞こえるなか、荒い息遣いがゆっくりと落ち着いてゆく。
首筋についた唾液は、氷のように冷たく張りつく。雫は解けたジャージの紐を固く結び直し、個室を出ると手洗いの蛇口をめいいっぱい開け、手を洗った。冷たい水道水が熱く穢れ火照った手を冷やす。
「犬飼游……」
鏡にうつる雫は犬飼游と名乗る怪異にキスマークをつけられ、呆然としていた。雫はそいつを睨みながら呟いた。
「……ぶっ殺す」
鏡にうつる雫はいつもと変わらない顔に戻っていた。




