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匣の街  作者: Mr.Y
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犬飼游、夜に駆け出す

 僕はスマホを用水路に投げ捨てると、△市中央通りへ向かった。

 胸中には他者や自分への怒り、後悔、感謝もあったが、どことなく清々とした気分のほうがいくらか勝っていた。

 △市中央通りに着くとゆっくりと注意深く走った。そこはいくらか僕の記憶にある街並みで、懐かしさや見知った店などもあるが、僕の記憶にある▽町と似ているようでまるで違っていた。

 それは進化系統樹で枝分かれした、けれどはっきりとした差異がある同種の生物のようでもある。似ているが決定的に違っており、時間が過ぎればさらに様相が異なるような不可逆な差異がみられた。

 まず▽町の街並みと比べるとかなり古びていた。

 中央通りに軒を連ねる商店が、いまはシャッターで固く閉じられている。最後に開けられたのはいつか想像できないくらい赤錆が浮いたシャッターや流行をとうに過ぎたキャラクターが色褪せて笑みを浮かべている。昼過ぎだというのに人通りも疎らで、歩道に人影はなく道路を走る自動車のほうが多い。もはや商店街というよりただの市道として機能しているようだった。

 そのなかで、僕は▽町の名残を探していた。

 なんでもいいのだ。僕がどうして△市へと来れたのか思い出せない。

 以前、白露圭介さんと△市中央街について話したことがあった。そのときに商店街の話になり、▽町の商店街との話に共通点がいくつもあった。それはきっと▽町の名残であり、△市と▽町との接点の証左だろう。だが自転車に乗って走ってしばらくすると中央通りの商店街は終わり、商店の並びは次第に民家になり、やがて田んぼと畑が広がりはじめた。

「ここではない」という思いと「見落としたか?」という焦りを覚えた。

 引き返し、さらにゆっくりと見覚えのある店や小路に注意深く目をやるが、店はシャッターが下ろされ、小路には秋霜にさらされ枯れた草藪があるばかりだった。

 しかし、その小路の壁にかかった一枚の錆びた看板に目がいった。某キリスト教の古びた看板かとも思ったが、そこには『拝天會』と書かれていたのだ。ただそこに同じく書かれていたであろう住所や電話番号は赤錆に埋もれて読めなかった。

 間違いない。確かにこの△市に拝天會はあった。

 あの教祖・拝屋樹はこの△市のどこかにいたのだ。

 いや、▽町の住人は人類を救うために△市をつくった、といっていた。もしかしたらこの△市は拝天會が救えなかった別の世界なのかもしれない。

 救った世界があの薄暗く閉じ込められたような▽町になるのならば救われなかった方がよかったのか、それとも救われ第三成長期という人類未知領域への発展の可能性を追い求めた方がよかったのか、僕にはわからない。ただ、僕はいま▽町に戻らなくてはならないのだ。

 秋の夕暮れは早く、日差しは徐々に弱くなる。

 僕は焦りを感じていた。どうやって▽町から△市に来たのかわからないからだ。記憶が辿れない。思い出せるのは病院でガスマスクの男に尋問されたことだ。僕はあのときなにを話したのだろう。▽町や僕の身の上の話だったに違いないが、それにしたっていま自身の半生をなぜここまで忘れてしまっているのか。蛇渕さんと暮らしていたときはもう少し覚えていた気がする。それがいつの間にかこぼれ落ちるように忘却していくいるのだ。

 ガスマスクの男に打たれた薬のせいだろうか。眠らされ、記憶が消えるような薬だったとか。確かに意識がぼんやりとする薬だったが、この忘却が薬によるものだけではないような気がする。

 僕は河川敷の一角にある公園のベンチに座り、途方に暮れていた。夕暮れは進み、あたりは暗くなってきていた。なぜかいままで恐ろしく感じたこともない夜闇が恐ろしかった。得体の知れない世界の得体の知れない闇が間近に迫ってゆく。

 そんな怯えをどうすることもできないまま、街影に沈みゆく夕日をみていた。

 息を整え、心を落ち着かせると、霧がかった記憶はゆっくりと晴れてゆく感覚はあった。

 この霧の正体は薬物によるものではなく、この世界が消しているのかもしれない、という確証のない推察が頭をよぎった。

 なぜ僕は今日突然▽町のことを思い出したのだろう。

 それを考えるとさきほどの消防団へ手伝いに行ったときのことが思い起こされる。

 幼少期の出来事との符合だ。

 友人だった勇と翔の失踪。捜索する人々。僕のまわりを囲む人々。消防団のあの顔ぶれ、あの時と同じ群衆のざわめき……それが、蓋をしていた記憶の堰を切った。

 なにかの状況や一部の既視感から思いもかけない深みへ事象は掘り下げられる場合がある。

 例えば僕が幼少期に誰からか聞いた呪文の話をしよう。

「おんらびらうんけんばさどばだん」

 意味のわからない呪文だった。ネットで調べたら真言で大日如来に帰依するという言葉らしい。

 だがこれらは記号だ。そしてただ唱えるだけなら音に過ぎない。けれどその音から学んだ真理を想起できれば唱えるだけで学んだ真理そのものをその場に現すことができる。それが真言であり経典や呪文というものだろう。意味不明とも思える言葉は圧縮された情報そのものなのだ。

 それと同じだ。

 僕が過去になにかをして、それを思い起こさせる事象があれば、それをきっかけにして、僕は僕自身を思い出すのだ。

 これは偶然だろうか。夢路さんが行方不明にならなければ僕はあの状況をまた経験することもなく、あのまま白露家に住み込み、この世界の一員として暮らしていただろう。

 なにか巨大なみえざる手が僕を操作しているのだろうか。

 僕は自分の意思でこの世界に逃げ込んだ。そしてこの世界に順応しつつあったのに、記憶の発現とともにこの世界からよくないものを感じる。この世界は僕を放り出そうとしているのか、それともあちらの世界が手招きしているのか。

 もしかしたら、勇と翔のように夢路さんも別の世界に迷い込んだのではないか。

 そこまで符合しているとしたら人ならざる者、神如き存在に僕は踊らされていることになる。それは善良な意思など持ってはいないだろう。僕の意思を無視し、運命を振りかざし、自由を奪う。

 ふいに頭のなかで声が聞こえた。

「神をみて、神に会え。私の代わりにな。そして彼の地への道を開けるのだ」

 ひどく気持ちを落ち着かせる老人の声だった。

 僕のなかに神から想起されるなにかがあったのだろう。

 僕は自分の存在を疑った。僕はまるで呪文そのものだ。

 あたりは暗くなり、公園の電灯は煌々と冷たい光を照らしていた。

 僕は歩き出した。自転車を置いて。持ち物も肉体ももうどうでもよくなってきた。そしてこの世界に興味を失いつつあった。

「おんらびらうんけんばさどばだん」

 口からあの呪文がこぼれる。

 力ある言葉だ。その音に肌が粟立つ。

 僕は真言を学んだこともなければ、ネットで調べるまで意味すら知らなかった。だがこの呪文には効果があった。幼少期、この呪文に助けられたことがあった記憶がおぼろげながらに存在した。

 なぜ意味を知らないのに力が得られるのか。

 真理を会得していないのに真理を現せる。知りもしないのに効果があるということは言葉が真理でもあるのだろう。言い換えれば言葉に大日如来が含まれ、またその呪文を発する個人にも大日如来が含まれているのではないか。もしくは言葉自体に大日如来が存在するということになる。

 僕もまた僕を通じて誰かが存在していた。

『博士』という存在を思い出す。

 僕が▽町を急に思い出したのは、もしかしたら博士が僕を呼んでいるのかもしれない。

 居ても立ってもいられなくなり、△駅へと駆け出した。よみがえってきた記憶を手がかりに。▽町から抜け出そうとしたとき、あれは▽駅での血塗られた奇怪な出来事からこちらに来た。夜の住人との抗争。夜空を漂うUFOクラゲ。意思を奪われたお父さん。きっと▽町にもう△市の名残はないだろう。

 駆け出したが疲れを感じなかった。風のように全力で駆けて気持ちいいとも思えた。そしてあれほど恐れた夜闇もむしろいまの僕に相応しい気がしてきた。

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