三十九話
だったら、と――ぼくは肩をすくめて両手を広げ、
「なにもなかったとでごわすばいー」
「舐めんナ!」
ガッ、と頬を殴られた。
頭の血管が、キレた。
「ンの野郎っ!」
ぼくは宙に吊り上げられたまま、赤髪の頬を殴り返した。めいっぱい力を込めたそれで赤羽は吹っ飛び、机の密集地に激突、それらを薙ぎ倒した。ド派手な音がしたが、他にひとはおらず防音機能が高いドアはキッチリ閉められているので、今すぐひとが来てどうこうということはないだろう。
拳が衝撃に、ビリビリ震えていた。初めて、ひとを殴った。その興奮は凄まじく、抱えきれず、とても収まらず――
「お、お、お前に! りょ、両親が死んでから、ずっと……ひとり苦しんできたオレの気持ちがわかって、たまるかよッ!!」
「……やっぱ、」
赤羽が薙ぎ倒された机を杖代わりに、立ち上がる。口元からは血が垂れていた。埃も舞い上がって、まるで昨今大ヒットの不良映画のような惨状になっていた。拳が、痛む。
「なにがやっぱ……」
「大変やったとじゃ、なかや」
自分の頬を、撫でた。痛みは、ほとんどない。舌で内側を舐めてみたが、もちろん出血もない。手加減、されていた。一発目の頭も、親が子供にするゲンコツ程度の威力。
「なんで言わんとさ?」
結局ぼくは、ただ単に純粋に他意なく、心配されていたという事実に他ならなかった。
「…………」
そう問われても、そも、ぼく自身に大変だったという自覚はなかった。だって最初聞いた時なにも感じなかったし、事ここに至るまで感情が揺さぶられたこともなく、涙のひとつも流したことは――
あの、夢。
起きるたび流れている、原因不明の涙。
「おいはわいのこと、かなり好きばい。でもわいは、おいたちがコンタクト取ってこんけん、忘れられたとかって思ったっちゃなかか?」
図星だった。図星過ぎて、とても恥ずかしい気持ちになった。これではまるでぼくはなんでもわかった気になっている痛い子供じゃないかと思う――あながち、間違ってもいないかもしれなかったが。
「また、四人で話せんや?」
「……うん」
ぼくは自分で一番、自分のことがわからなくなっていた。
――ぼくはいったい、なんなんだ?
集合場所は、嘉島が所属するバンドサークル『Neptune』のサークル室内となった。このNeptuneという名はローマ神話の神であるネプトゥーヌスの英語読みであり、ギリシア神話のポセイドンに相当するらしい――が、どうしてもお笑いトリオのネプチューンのイメージが強すぎて、ちょっと笑えてしまうのも事実だった。その辺も含めて、やっぱり大学のサークルだなと。
『…………』
サークル室には、沈黙が下りていた。ちなみに現在時刻午後8時40分のサークル室には、ぼくたち4人以外誰もいなかった。あと20分もすれば、大学は閉まる。他のサークルのメンツも各々飲みやら飲みやら飲みやらに出掛けたらしい、さすがは大学生、らしい日々を送っていると思う。ちなみにぼくも、今日はたまたまバイトが休みだった。まったく、タイミングがいいことこのうえなしだった。
サークル室というものに入るのは、バンド演奏練習見学以来の、二回目の体験だった。しかしあのときと違い、華やかさはない。隅にはギターやらーベースやらドラムやらが押しやられ、床やいくつかの大きなテーブルの上には菓子類や雑誌類が散乱し、そしてゴミや埃も溜まっていた。なんだか単なる不良の溜まり場にでも来てしまったような心地になる。置いてある椅子も全部パイプ椅子だし、窓も一か所しかないし、結構狭いし。
ぼくは、入り口側にひとりで座っていた。
そして向かいに、左から赤羽、嘉島、堀さん改め深雪ちゃんの順に並んでいた。なんだこれ取り調べかよ、という様相を呈していた。それになんか、空気重いし。オレ、悪いことしたっけ? ――まぁ、したんだろうな。
赤羽はムッツリ顔、深雪ちゃんはつまらなそうな顔で足と手を組んで、脇を固めていた。唯一真ん中の嘉島の笑顔だけが、この場の良心という感じがした。
「――――」
誰から話を始めるのか、正直探り探りだった。とりあえず誰かから始めて欲しいというのが本音だったが、それもどうやら望めないようだった。こうしていて、既に10分弱。学校が閉まる時間も、迫っている。やはりここは主役であろうぼくから、切り出さなければならないのだろう。
ぼくは軽く、息を吸い込んだ。