三十三話
足の高いカウンターに、生まれて初めて着席した。微かに煙草の匂いがした。まずは駆けつけ一杯ということで、なにを頼むか悩んで、菅原さんにお任せすることにした。菅原さんはアイリッシュコーヒーを、ぼくにはブラッディマリーというカクテルを注文してくれた。
ドキドキしながら、過程を見守る。マスターはまず、茶色と赤い液体をシェイカーに注ぎ、シャカシャカとシェイクを始めた。手際イー、とつい見惚れてしまう。田舎者だと馬鹿にされようが、こういうものに対する憧れは隠せるものではない。おっしゃれだなー。
まるでメトロノームのような規則正しい動きがピシッ、と止まり、そして洗練された動きでグラスに注がれる琥珀色の液体、うん、言ってみたかっただけでどっちかってーとニンジン色でした、アレ? 琥珀色って赤よりニンジンに近かったっけ?
スッ、と人差し指一本で、差し出される。
かっちょいい、と感心しつつ、ぼくは恐る恐るグラスをつまみ、その液体を口に運んだ。
「あ、トマト……」
「そう。ブラッディマリーって、ウォッカとトマトのカクテルなのよ。別名ブラッディメアリー、16世紀のイングランド女王、メアリー一世の異名に由来するといわれているわ。300人も処刑したっていう、『血まみれのメアリー』ね」
少し遠い目でそう語る京美人のミステリアスな魅力に、ぼくは、ぼくはもう――!
「……語るねぇ、万知子ちゃん。最初来た頃は『わっ、これ超フルーティーなにこれニンジン? ニンジン? え? ニンジンじゃないしニンジンはフルーツじゃない?』とかって言ってたのに……」
「わっ、マスターそれ言うの反則ー」
あははははっ、と笑う台無し京美人。そうですか受け売りですかなるほどすっかり騙されるところでした、そういえば京都も地方ではないけど東京ではないからそれほど自分と立ち位置に違いがあるわけではないのか?
ぼくは少し、肩の力が抜けた心地だった。改めて、菅原さんが自分用に頼んでいるアイリッシュコーヒーというカクテルを作る工程を見学させてもらうことにした。やっぱりシェイカーでシャカシャカとシェイクでも――
ごぽごぽっ、とビーカーがアルコールランプによって沸騰されていた。
「…………」
小学校以来のビックリ実験の開始だった、ていうか直に温めていいのか、というかなにをしているのか? 確か菅原さんが頼んだのは、アイリッシュコーヒーで――
ぴしっ、とビーカーにひびが入った。どん引きだった、どういうことだ? おいおい割れるよ? なにをいったいどうしてるの?
と考えていたら、中身を広めのグラスに移し、またも人差し指でつい、となぜかこちらに差し出されていた。
ぼくはしばらく、声が出せなかった。
「……これ?」
「ようこそ神秘なるカクテル、『アイリッシュコーヒー』の世界へー。由来は、飛行艇が水上で給油する待ち時間に乗客の体を温めて貰おうという心遣いから、アイルランド名物のアイリッシュ・ウイスキーをベースとして生まれたって言われてて……ってまぁあんまり御託ばっかり並べても退屈よね、マスター?」
「万知子ちゃんが言いたかっただけでしょ、まったく……アイリッシュコーヒーはアイリッシュウイスキーをベースに、コーヒー、砂糖、生クリームを入れた、甘いホットドリンクのカクテルです。甘いのは、だいじょうぶですか?」
「大好物です」
ぼくはニカッ、と笑って、アイリッシュコーヒーとやらに口をつけた。温っかい、そして本当にかなり、しかし実に心地よい甘みと、そしてアルコール。確信した、ぼくはカクテルの方が合っている。
満足を得て、グラスを置く。
「……美味しい、ですね」
コト、という固い音がした。その反応に菅原さんは満足そうに妖艶に微笑み、そしてグラスをつまみ、まさかのぼくが口をつけたところからアイリッシュコーヒーを喉に流し込んでいた。その様子をぼくは、アホの子のように口を開けて見つめていた。いったい、どういうつもりなんだこの人は?
そして菅原さんはまさかの、アイリッシュコーヒー一気だった。なんだか最近一気する人ばっかり見るな、みんな酒はよく味わってだな……とか思ってたら、
「――うへぇ」
目が、据わる。あれ、おかしいな? 妖艶から色っぽくなるかと思えば、そこに現れたその迫力はいったいなに?
「あ、あの……菅原さん?」
「だに?」
ダニじゃねぇよもう色気も何も女ですらねぇなおい。
ぼくは赤羽に続きまたも酔っ払いの相手をさせらそうな予感に、めいっぱいウンザリした心地になりながらもそれをなんとか見せないよう必死に作り笑顔もとい愛想笑いちがうちがう人当たりの良さそうな笑みを浮かべ、
「そ、その……アイリッシュコーヒー、美味しいですねぇ?」
「間接キスしたね、うへへ」
うんしたねほんのちょびっとはときめいていたこの初心な純情ハートを返せこんちくしょーとは言わなかったけど心の中では泣いてましたよ? もちろん表には出しませんでしたが、
「そ、そうですね……アハハ、参っちゃいましたよ、てへ?」
「なにそれ?」
そこでシラフに戻るってホント反則だよなー、と滝の涙で号泣だった。もうどうして欲しいんだこの御仁? ていうかなんで呼ばれたんだオレ?
「…………」




