三十二話
サークル室でバンドの練習会をやるというので、それにお邪魔させてもらうことにした。嘉島は確かに、ロックバンドの顔だった。いつもはだらしなく垂らしている髪はきっちり左右に分けられ、一部は立てられ、そしてメイクもバッチリでアクセサリーもジャラジャラつけて、そしてシャウトしていた。スピーカーにより増大されたギターベースドラムのそれよりも、圧倒的に大音量にぼくには感じられた。魂で、咆哮しているような。そう思わせるような切なさがその響きには、そして表情にはあった。今までの彼の人生を、想わせるような。
ぼくは彼らと別れ、そして次の授業に向かった。大学の講義に身を投じていると、どこか現実離れしている感覚を覚えた。色々とここ最近、変化が激しすぎるように思う。なにがきっかけだったのかと考えてみれば、やはり彼女だったように思う。
と間接的にではあるが、気づけばぼくは彼女のことを想ってばかりだった。まるで恋だった、残念ながらまだその気にはなっていないが。
授業を終えて帰り際、中庭の様子を覗いてみた。
残念ながらその日、彼女の姿を身留めることはできなかった。
その日のバイトは、いつも通りの忙しさだった。会話はおろか、ほとんど息をつく暇もない。だけどこうして全力で体を動かしていると、余計なことで絡まれないで済む。余計なことを、考えないで済んだ。ただ次から次へと送られる指示をこなすだけで、事済んでしまった。
だから今日のことを、思い返していた。
理事長の娘だと、堀――深雪ちゃんは言っていた。あれだけおおきな大学の理事長の娘だというのなら、それは相当に恵まれていると考えていいだろう。少なくとも経済的には豊かな筈だ。それがなぜ、透明だとか言われているのだろうか? 親の虐待か? それとも逆に、忙しさにかまけて放っておかれたせいか? はたまた教育の行き過ぎという線もあるか? 学校でのいじめ? それになぜ、地球の裏側に行きたいと考えているのか? それもすべて、彼女の妄想なのだろうか? ADSDという病気を思い出した。あれは確か注意欠陥多動性障害だとかいったか。それに統合失調症というやつは幻覚や幻聴を引き起こすという。嘉島も病気だったらしいから、輿水さんが病気でもなんの不思議もないだろう。
しかしもし、本当に地球の裏側に彼女のいう大切なひとがいるとして、それが以前尋ねたどれでもないとして、だとしたら他になんらかの可能性があるのだろうか? 穴を掘る、その意味が――
なんて延々考え事をしながらせわしなく働いていたら、あっという間に時間が過ぎていた。ちらりと時計を見ると、残り二十分ほど。これはいい、こんな日が毎日続けばストレスも溜まらなくて精神衛生上はよろしい、肉体衛生上は知らないが。
とりあえず、考えはある程度まとまっていた。
理事長に、会ってみようと思った。確か年に数回ほど大学を訪れるらしく、その日が結構近かったはず。となれば善は急げ、とさっさと仕事を片付けようと――
「次、4番テーブルに『獺祭』一本!」
「はい」
さくっ、と答え、その言われた『獺祭』をお盆に載せて持っていく。山口生まれの奇跡の大吟醸と呼ばれ、そのフルーティーな飲み味と常識破りの安さが売りだとか。ちなみにぼく自身日本酒は飲まないので情報は完全な受け売りだが。
さて、しかし格安とはいえ大吟醸を頼むとは、果たしてどんな酒飲みが?
「お待たせ致しました。大吟醸『獺祭』ご注文のお客様は――」
「あら、之乃くん?」
凍り付いた。
思考も行動も、なにもかも。そのセリフもそうなら、その声もまた聞き覚えがあり過ぎるものだった。――そんな偶然、二度も続くか? ぼくは自分に言い聞かせるように思い、そして伏せていた顔を、上げた。
「……菅原さん、ですよね?」
「昨日ぶりー」
まったくもって、その通りだった。
奇跡の再会を二度に渡り繰り広げた感動醒めやらぬうち、ぼくと菅原さんはオーダーとるついでという形で少しだけ言葉を交わし、そしてなぜか仕事あがりに落ち合おうという話に相成った。
菅原さんは女友達と二人で居酒屋に来ていて、しかしお連れさんは明日も仕事ということでもう帰りたいと言い、まだ飲みたい菅原さんはちょうど先日知り合った暇そうな大学生を見つけたという構図らしい、そうは言ってもぼくも今朝から授業から仕事でガッツリ疲れきっていたのだが女性からの御誘いは断れないよねというお話。
飲み直すなら職場は嫌だと告げると、菅原さんはだったら行きつけの店へ、という話になった。
仕事を上がり、菅原さんと落ち合い、そして夜の街へと繰り出す。といっても3時過ぎ、さすがの東京でも開いている店は少ない。
どうするのかと、菅原さんのあとについていく。彼女は駅前に店が集まっている一角の、とある地下へと足を踏み入れていった。それにぼくは、一瞬躊躇する。地下――アンダーグラウンド的連想は、もうお腹いっぱいだっての。ぼくは自嘲し、そして彼女のあとに続いた。
そこにある古びたドアを潜ると、ちりんちりんと鈴の音がした。
「ここ……」
まさか、とは思ったが。
「そう、うち行きつけのバーなの。カクテルが美味っしいんだー」
昨日の今日で、夢が叶いました。




