4(まだ早い)
*
ヒカルとの共同生活は暫く続き、ふと終る。
「また来るね」ライカの頭を撫でながら、「しっかり勉強するんだよ」
力強く頷く息子に、母の言葉も同じくらい真摯に受け止めてくれてもいいじゃないと小さくごちた。心が狭いと云われたっていいさ。本当の事だもの。
ライカはヒカルとの約束をきちんと守った。
また数年経った。ふらっとヒカルが訪ね来ては自分の年格好を棚に上げ、ライカの成長に驚き、以前よりも難しい疑問質問に、以前よりも更に難しい特別講習をひとりの生徒のために行った。ライカはどんどん吸収していった。
「優秀すぎて怖いね」言葉とは裏腹に、ヒカルはからっと笑った。
「いいのかな、と思う」その頃、ライカはぶ厚い眼鏡と、水色の補聴器を左耳につけていた。
「大丈夫」ヒカルは断言した。「心配ないよ」まるでわたしの心を見透かしたように。「立派な航空宇宙技術者になる」
自信にあふれた物云いは、わたしの懸念をいとも簡単に溶かしてしまった。
この少女は魔法を使える。
ヒカルの言葉通り、ライカは自分にしか見えない道の先へと脇目も振らずに邁進した。
十六歳を迎え、さっさと修学するや(それでも二年延長したのだ)、宇宙事業団に籍を置き、月に飛ばされ、研究開発に明け暮れた。
静かの海に作られた研究所は、土地の名とは裏腹に人使いが荒いらしい。
実験だの学会だのと忙しい息子とは、たまに回線経由で連絡を取り合った。話はいつも同じ流れに落ち着く。ライカはヒカルのことをよく口にした。
自分には母親がふたりいる。
愉快そうな口ぶりは、おそらく周りにも似たようなことを吹聴しているに違いない。ふたりの母。本人がそれでいいなら、わたしだけが母親ぶることもない。ヒカルも充分、母親を名乗る資格がある。そしてなにより、ライカが思うように、したいように、望むように。それが一番なのだ。
当のヒカルも相も変わらず予告なく、ひょっこり遊びにやって来た。
「休みがとれた」
奇遇。それは大抵、わたしも仕事の忙しくない時期だった。分っていて訪ね来るのではないかと思うこともある。暫く居着いて、「またね」と、言葉を残して、ふっと消える。
息子が月から帰ってきた。
「話がある」ひどく真剣な面持ちで切り出した。「事故のことが分った」
それは突然であり、突飛なことであった。
「どうするの?」わたしは訊ねた。
「助けたい」
息子は真っ直ぐわたしを見て云った。
「そう」
頑張りなさいと、わたしは息子をまた月へと送り出した。ライカと入れ違うように、ヒカルがやって来た。
ヒカルはあの日から少しも変わらない姿で呑気に挨拶すると、「聞いたね?」
すいと切り込んできた。
*
「なんで黙っていたの?」
わたしの声と、ヒカルの声が重なった。
ぴったりと。
「それだよ」ヒカルは云った。「あんたが次になんのこと、って云うのも分ってる」
「なんのこと?」
思わず云って、あ、と口を押さえた。「なんで?」
「ここには順序ってのがあるから」
「あんたにはないの?」
「うん」ヒカルはあっさり肯定した。「あの時から全部同じなんだ」
「なにもかも分っていたのね」
「ちょっと違うかなぁ」と、ヒカル。「なにもかもが等しいって感じ?」
「よく分らない」
素直に答えた。「そうだね」ヒカルも素直に認めた。「なにしろ超科学ですから」云って、やっぱ違うなぁと頬を掻き、「科学の括りでいいのかって、それも議論対象になってる」
わぁ、まただ。「面倒ね」
「面倒だ」からっと笑う。自分のことなのに。
でも、ヒカルもまた当事者なのだと思い当たって、恥じた。
「あたしなりに考えてみたことだけど」ヒカルは正解じゃないよ、と前置きし、「すべての時間、未来に対して、等しく在る。時間とか未来って、川に似ているんだ」云って口をつぐみ、小さく首を振った。「川よりも水かな。高いところから流れていく。色んな分岐がある。けれども最後は収束して、より大きなものの一部になる。ちょうど海に流れるように。水はね、在るべき所にきちんと行き着くんだ。そして雲になり、雨になり、大地を潤し、また川になる。あたしたちはそこで泳ぐお魚さんなんだ」
また時間が過ぎた。
変わったことと云えば、息子が髭を伸ばしたことと、わたしが仕事を辞めたことだろうか。
ライカの言に因れば、いよいよ大詰めらしい。ヒカルの云ってた宇宙を一足飛びに出来るなんとかと云う装置だか現象は、公表された。同時に、遥か昔に宇宙の何処かへとかき消えた実習船のことも。
地球に戻って来ると云うライカに、わたしは久方ぶりに母親権限を行使して、一、月に留まること、二、実験に集中すること、三、結果をきちんと考察することを約束させた。
追加で毎日きちんとお風呂に入ることと、きちんと洗ったシャツに着替えることも。
不満そうな息子に、「一度に全部をやろうなんて欲張っては駄目」
ぴしゃりと云ってやった。なかなか会心の一撃だったと思ったが、「勝手にくたばったりしたら許さないから」と、反撃を喰らった。
は-は-は。
さすがわたしの息子だけはある。けれども、どんなにあんたが髭を生やそうとも、学術誌の表紙を飾ろうとも、年上ぶってかわいい女学生を泣かそうとも、ライカはライカ。背伸びでしかない。小さいままのかわいい息子は、生まれた時からちっとも何も変わりない。
戸棚の隙間の暗がりや、蜘蛛やゲジゲジ、小さな虫を怖がっていたこと。ニンジンを食べられず、いつまでもぐずっていたこと。いたずらをして洗面所を水浸しにしたこと。本の文字を指で追いながら難しい単語を発音しようと一所懸命になっていたこと。階段から落ち、額を切って血だらけなのにケロッとしていたこと。ひどい風邪で寝込んで肺炎になりかかったこと。
ねぇ、ライカ。
あなたが生まれて、わたしはその全部を見てきたつもりでいたけれども、同じくらいに知らないことがたくさんあると思う。でも、それは知らないでいいことなのだと思う。
全部は欲張り過ぎ。
あなたがヒカルから何を学んで、どんな話をしたか、わたしには分らない。わたしはわたしの分だけ、しっかり胸に刻んでいるから、それで充分。
ふいに視界いっぱいにヒカルの顔が広がった。「まだ早いよ」
わたしの咽喉は返事をする代わりに、咳を押し出した。




