夏の湿気と、サーブの矜持
梅雨明けの京都は、息が詰まるような暑さだ。
体育館の扉を開けると、そこには外気とは別の、汗と情熱が混ざり合った濃密な空気が待っている。
「いい、清水。あなたのサーブには『意思』が足りないわ。ただ入れるだけのサーブなんて、全国レベルのブロックには、ただのチャンスボールにしかならないわよ♡」
監督の鋭い声が、練習中の体育館に響き渡る。
私のサーブ。中学時代は「ミスをしないこと」を最優先にしていた。でも、ここは鳳凰学院。京都の強豪として、より高いレベルへ行くためには、サーブは「攻撃の起点」でなければならない。
私はボールを握りしめ、エンドラインに立った。
掌に伝わるボールの感触。指先に残るわずかな湿気。
(意思、か……)
ふと、父のことを思い出した。
父が競馬場で語ってくれた、馬たちのこと。一頭一頭に物語があり、それぞれの意思でゴールを目指して走る。あの時、父が瞳を輝かせていた理由が、今の私には少しだけわかる気がした。
バレーボールも同じだ。この一球に、何がしたいのかという「意思」を乗せる。
私は呼吸を整えた。
心の中で、ピアノの鍵盤を叩くようなリズムを刻む。姉が大切に弾いていた『エリーゼのために』の、あのか細くも芯のある、あの調べを。
――タン、タン、バァンッ!
鋭く放たれたサーブは、ネットすれすれを通過し、コートの隅、最も取りにくい「サイドラインのギリギリ」を射抜いた。
「……ナイスサーブ!」
コートにいた先輩が驚いたように声を上げる。
私のサーブが決まった。ただの安定したボールじゃない。私が、「ここに落とす」と決めた場所に、意思を乗せて届けたボールだ。
「あら。やっと床だけじゃなくて、ボールも愛し始めたわね、宗子♡」
監督が珍しく、口元に薄い笑みを浮かべた。
練習が終わった後、私は少しだけ残ってサーブの感触を反芻していた。
体育館の窓からは、夏の夕暮れ特有の、深く燃えるような空が見える。遠くから、また祇園囃子の練習の音が聞こえてくる。
「やっぱり、何かコツを掴んだみたいだね」
不意に声をかけられ振り返ると、扉のところで森本くんが待っていた。
「健太。見てたの?」
「ああ。お前のサーブの放物線が、昨日よりわずかに鋭角になってた。多分、重心移動の時に、今までよりも0.1秒だけ早く腰を回したんだろう?」
「……さすが、健太」
私は苦笑しながら、汗を拭う。
バレーの技術も、京都の街の移ろいも、全部がパズルのように噛み合って、私を少しだけ遠くの場所へ連れて行ってくれる。
帰りのバスを待つ四条通りの交差点。
人混みの中で、ふと見慣れた背中を見かけた。九条玲司さんだ。
彼は男子バレー部の仲間と笑い合っている。その横顔を見て、胸の奥が少しだけ、チクリと痛むような、それでいて温かい感覚に包まれた。
「恋なんて知らへん」
そう自分で言い切ったはずなのに。
強豪校の厳しさも、全国へのプレッシャーも、全部ひっくるめて、今のこの暑い夏がたまらなく愛おしい。
私は鞄を抱きしめ、沈みゆく京都の空を見上げた。
この街の暑さも、部活の疲れも、全部私の青春だ。
明日もまた、もっと遠くへ、もっと鋭いサーブを打てるようになりたい。
そう願いながら、私は家路へと急いだ。
今日はお母さんと一緒に、冷たい水まんじゅうでも食べようかな。そんな小さな楽しみが、私を明日へ向かわせる。




