楽譜なきフリージャズ
「……もう、頭で考えるのはやめよう」
息が苦しい。肺が焼けるようだ。
スコアは9対18。ダブルスコア以上の差をつけられ、私たちの心は完全に磨り潰されかけていた。怜の「調律」は完璧で、私たちがどんなに変化をつけても、すべて先回りして回収されてしまう。
サインも、戦術も、白鳳を破ったあのフォーメーションすら、今の聖華の前ではただの「予測しやすいパターン」に過ぎない。
「宗子……?」
結衣が、汗まみれの顔で私を見る。その目にも焦燥が滲んでいた。
「結衣、美咲。サインはもう出さない。アイコンタクトもしない。……お互いを見るのをやめよう。ただ、体が動くままに、その瞬間の衝動だけで動いて」
「え……?」美咲が目を見開く。
それは、バレーボールというチームスポーツにおける、完全な「規律の放棄」だった。けれど、二人は私の狂気じみた目に、何一つ否定の言葉を返さなかった。
「……いいよ。元々、うちらに綺麗なバレーなんて似合わないもんね」
結衣が不敵に笑い、レシーブの構えをとる。
怜の痛烈なサーブが、再び私たちのコートへと襲いかかった。
ボールが迫る。美咲は考えるのをやめていた。
ボールの軌道、セッターの位置、そんなデータをすべて脳からシャットアウトし、ただ「ボールを落とさない」という本能だけで体が勝手に跳ねる。
ドバシッ!
美咲の腕を弾いたボールが、あり得ない角度でバックゾーンへと跳ね上がった。完全なチャンスボールが、聖華のコートへ返りそうになる。
「――渡さない」
私の身体が、思考より先に動いていた。
ネット際へと猛然とダッシュし、床を蹴る。ジャンプしながら、私の脳裏に強烈な記憶がフラッシュバックした。
それは、かつて怜と競い、私を壊した「完璧なクラシックの楽譜」ではない。
誰もが正解を求める世界で、私が密かに憧れていた、鍵盤を激しく叩き壊すかのような――衝動だけの「フリージャズ」。
コートは鍵盤だ。
そして、今この瞬間に跳び上がっている私の指先が、その鍵盤をめちゃくちゃに掻き鳴らす。
「結衣ィ!!」
空中でボールをキャッチする寸前、私はあり得ない背筋のひねりだけで、真後ろの、それもネットから大きく離れた「誰もいない空間」へとボールを弾き飛ばした。トスですらない。ただの、狂気的な背面パス。
普通なら、誰も追いつけない。誰もそこに上がるとは思わない。
「いっけええええええええ!!」
だが、そこにはすでに結衣が跳んでいた。
彼女もまた、私の動きを見ていなかった。私の背中から放たれる「熱量のうねり」を本能で感じ取り、ただそこにボールが来ると信じて、最高打点で腕を振り抜いていたのだ。
ドッゴォォォン!!
聖華の三枚ブロックが完全に完成する前、その横をすり抜けた弾丸のようなスパイクが、聖華のコートの中央へと突き刺さった。
「な……っ!?」
初めて、怜の顔から余裕の微笑みが消え失せた。
今の攻撃には、何の脈絡も、何のデータもなかった。美咲の野生のレシーブ、私の狂ったタクト、結衣の盲目的な突撃。それらが会話なしに、純粋な生物的本能だけでシンクロした、楽譜なき即興演奏。
「お待たせ、怜」
私は着地し、肩で息をしながら、ネット越しのライバルを見据えた。
「これが私たちの、本当の音楽よ。あなたの完璧なメトロノームで、この狂ったリズムが調律できるかしら?」
スコアは10対18。
点差はまだ開いている。けれど、体育館を支配していた聖華の「静寂の支配」は、私たちのたった一打のノイズによって、完全に叩き壊されていた。




