ベンチの端の小さな決意
インターハイの興奮が冷め、練習の熱量も少しずつ日常のルーチンへと戻り始めた頃、私はベンチの端で一人、シューズを履き直している一年生の美咲を見つけた。
美咲は、入学当時から私のプレーに憧れてバレー部に入ってきた子だ。しかし、最近の彼女は練習中、どこか上の空のように見える。声出しも以前より小さく、ボールへの執着もどこか遠慮がちだった。
「美咲?」
私は歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろした。体育館の空気が、彼女の周囲だけ少しだけ澱んでいるような気がする。
「……宗子さん。すみません、集中してなくて」
「謝らなくていいのよ。ただ、最近何かあったのかなって。気になってたから」
美咲はしばらく指先で自分のスカートの裾を弄り、ようやく小さな声で話し始めた。
「私、鳳凰学院のバレー部が大好きで入ったんです。宗子さんのレシーブも、加藤先輩のスパイクも、全部全部かっこよくて……。でも、いざ自分がそのコートに立つと、皆さんが積み上げてきた凄さの前に、自分だけがずっと遠い場所にいるような気がして」
彼女は視線を上げ、コートの天井を見上げた。
「優勝して、さらに皆さんは高い場所に行ってしまった。私、これからもずっとベンチの端で、皆さんが背中を追い越していくのを見てるだけなのかなって……。そう思ったら、怖くて」
その言葉は、まるでかつての私の影を見ているようだった。私も、姉の背中を追っていた時は、いつもこんなふうに自分の無力さに打ちのめされていた。
私は美咲の手を、そっと握った。彼女の手は、驚くほど冷たかった。
「美咲、私ね、最近まで『天才』とか『エース』とか、そういう言葉の重さに押し潰されそうだったの。自分が誰よりも高く跳ばなきゃいけないって、自分を追い込んでた」
「……でも、宗子さんはすごいです。誰よりもかっこいいです」
「それはね、私一人の力じゃないからよ」
私は立ち上がり、コートを指差した。
「私がレシーブを上げられるのは、後ろでみんなが声をかけてくれるから。私がスパイクを打てるのは、誰かが苦しいボールを繋いでくれたから。バレーはね、一人で音楽を奏でるピアノとは違うの。誰かの音を聞いて、それに合わせる……そうやって、初めて全員で一つの曲になるんだから」
私は美咲の背中に手を置き、少しだけ力を込めた。
「次の練習試合、私と組んでくれないかな。美咲のフォロー、一番近くで見たいの。ベンチの端じゃなくて、同じコートの床を蹴る感触を、一緒に確かめてほしいんだ」
美咲の瞳が、少しだけ潤んだ。彼女は何度か深呼吸をすると、ふっと、これまで見たことのないような真っ直ぐな表情で頷いた。
「……はい! お願いします!」
翌日の練習試合。
私はあえて、美咲の守備位置にボールを呼び込んだ。美咲は必死の形相でボールに飛び込み、見事に私の正面へと弾いた。
彼女が私の名前を呼ぶ声が、体育館中に響く。
「宗子さん、繋ぎました!」
その声は、これまでで一番、美咲らしい音色で響いていた。
コートという舞台は、誰か一人が主役を演じる場所ではない。誰もが自分の旋律を奏で、互いに影響し合って、初めて一つの物語が完成する。
ベンチの端にいた後輩が、今、コートの主役として輝き始めた瞬間だった。
私はボールを打ち込みながら、心の中で確信していた。
鳳凰学院は、もっと強くなる。
私一人で強くなるんじゃない。この子たち全員で、新しい音楽を作り上げるんだ。




