雨上がりの自販機前
夕立が過ぎ去った後の京都は、アスファルトから立ち昇る熱気と、どこか洗われたような清涼な空気が混ざり合っている。
鳳凰学院の校門を出てすぐの自販機前で、私は自分の喉を潤すための炭酸飲料を選んでいた。
「……清水さん」
不意に背後から声をかけられ、私は反射的に振り向いた。
そこには、制服のシャツの袖をまくり、少しだけ髪を濡らした九条玲司さんが立っていた。
「玲司さん……。練習、終わりですか?」
「ああ。……君もだね」
彼は私の隣に並ぶと、迷うことなく同じスポーツドリンクのボタンを押した。
沈黙が流れる。先ほどの更衣室での加藤先輩との会話が、ふと胸の奥で反芻される。先輩の言葉は温かかったけれど、やはり同じ「選手」という立場の玲司さんと話すと、また別の緊張感が走る。
「……全国優勝してから、僕ら、なんだか別の世界に住んでるみたいだね」
玲司さんは缶を口に運びながら、ぼんやりと通り過ぎる車を眺めた。
「そうですね。周りからは『次は連覇だね』とか『負けられないね』とか、当たり前みたいに言われて……」
「僕もそうだよ。昨日のミーティングで、部長から『エースの自覚を持て』って言われたんだ。……もちろん、分かってるよ。でも、そうやって期待のラベルを貼られるたびに、自分の本当の気持ちがどこにあるのか、分からなくなることがある」
彼は普段、コートの上では決して弱音を吐かない人だ。
だからこそ、その言葉の重みが、今の私には痛いほど刺さった。彼は私を「天才」としてではなく、同じ重圧を分かち合う「一人の人間」として見てくれている。
私は彼を見つめた。濡れた髪の隙間から覗く横顔が、いつもより少しだけ大人びて見える。
「……あの、玲司さん。もしよかったら、今度……バレーのビデオ分析じゃなくて、ただのピアノの練習、聴きに来ませんか?」
口から出た言葉に、自分でも驚いた。
それは、彼に私の技術を見せるためではなく、私が姉の記憶と向き合っている、一番「素」の場所に、彼を招き入れたいという衝動だった。
彼は一瞬だけ目を丸くし、それからふわりと、心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「……いいの?」
「はい。……私の演奏、たぶんバレーよりずっと不安定で、脆いけど。それでもいいなら」
「光栄だね。君のバレーも最高だけど、君が奏でる本当の音を聴けるなんて、僕にとってはどんな勝利よりも贅沢な時間だよ」
自販機の明かりが、私たちの影を地面に長く伸ばしていた。
特別な会話をしたわけではない。けれど、この自販機前での数分間が、これまでどんな練習よりも確実に、私たち二人を深く繋いでいくのを感じた。
彼は飲み干した缶をゴミ箱に捨てると、一歩だけ私に近づいて、少しだけ照れくさそうに笑った。
「じゃあ、約束だね。……また明日、コートで。いや、今度はピアノの部屋で」
彼が去った後の道は、さっきよりも少しだけ明るく見えた。
私はもう一度、自分の指先を見てみる。
加藤先輩の体温と、玲司さんの約束。
その二つが私の中に混ざり合い、少しずつ「鳳凰学院のエース」という鎧を溶かして、私自身を形作っていくような気がした。
明日、またコートに立つのが、少しだけ楽しみになった。




