好きだったのかもしれない
その夜、私は一人で歩いた。
ぽよよん、と足元がやわらかく沈む。
優しくて暖かい夜風に、涙が出そうになった。
彼は、彼女と付き合うことになったらしい。
心のどこかに、穴が開いてしまったような感覚があった。
私は、自分の足が向かうままに歩いていた。
たどり着いたのは、山の中腹にある森の奥の泉だった。
前に彼が、自分を見つめなおしたいときに来る場所なのだと教えてくれた。
その夜は満月だった。
私の後ろには、薄い影ができていた。
泉の中では、黄色い月が静かに揺れていた。
覗き込むと、ぼんやりと私の顔が映った。
「彼のことが、好きだったのかもしれない」
そう言葉に出すと、震えた声帯からこぼれたそれが、妙に形を帯びて、自然と森の中になじんでいくような感覚があった。
誰もいない森は、私の言葉を、何の責任も負わせずに、ただ溶かしてくれるように思えた。
「でも、やっぱり、好きだったのか分からない」
胸の奥にあった小さな異音だけは、この島に来てから一度も消えなかった。
彼を引き留められなかったのは、彼に好きな人ができたからだけではなかった。
私は、少し冷たい空気を吸い込んだ。
森の匂いが、胸の奥まで入ってきた。
もう一度、泉を覗き込む。
水面には私が映っているはずだった。
でも、そこにいる誰かは、少しだけ彼に似ていた。
「似てたんだ。最初から」
そう言うと、水面が言葉に呼応するように揺れた。
彼は鏡ではなかった。
でも、私の中にもあるものが、彼の中では少し先まで伸びていた。
だから私は、懐かしいものを見るみたいに惹かれて、知らないものを見るみたいに怖かった。
私は怒らない。
だから、あなたも怒らないで。
私は受け入れる。
だから、あなたも私を受け入れて。
そんな声が、水の底から浮かんできた気がした。
水面が揺れて、私の顔も、彼に似ていた気配も、ゆっくりほどけた。
私は泉から顔を上げて、また歩き出した。
気づけば、船着き場に来ていた。
小さな街灯が、消えかけたり灯ったりしながら、不器用に点滅している。
夜の船着き場が、こんなにも静かで、でも怖い夜ではなく、どこか柔らかさをまとったところだとは知らなかった。
最後になって、私はこの島の夜の海を知った。
そのことが、なぜかひどく惜しかった。
どこか悲しく聞こえる波の音に耳を澄ませた。
船を出そうと縄をほどいたとき、背後から声がした。
「帰るの?」
気が付いたら、彼が後ろにいた。
「うん」
彼に好きな人ができなければ、私はこの島にずっといたかもしれない。
「そっか」
彼は、引き止めることも、否定することもなかった。
それが、この島らしかった。
私は振り返って、彼に何かを言おうとした。
人間は、そんなに綺麗じゃないかもしれないこと。
だから、何があっても折れないように、強くいようぜ、と。
でも、その言葉を言うには、私はこの人と向き合う覚悟が足りなかったし、この人がどれくらい強いのかも、どれくらい折れないのかも、何も知らないままだった。
だから、結局何も言えなかった。




